8(狼)
「燈花、あの」
「なんですか」
「今日は、部屋を別にして欲しいんだけど」
燈花はこの世の終わりみたいな顔で僕を見た。
「この世の終わりみたいな顔で見ないで」
「この世の終わりです……」
「どうか終わらないで」
「香織は私と一緒のベッドで寝たくないのですか」
「直球で言わないで」
「私は一緒がいいです」
「照れるから」
「私は! 一緒が!」
「声が大きい」
(ファミチキ……)
「脳に直接」
「どうしてですか」
「いや、その……今日は」
この一ヶ月は、ものすごく濃密だったような気がする。いや、うち三週間くらい引きこもっていたんだっけ?
「ああ」
燈花にそれは伝わる。皆まで言わずとも。
「今日は満月、ですね」
*
弘前公園の近くの小さなホテルに二部屋取った。ベッドで部屋が埋まっている、なんの代わり映えもしない、ジャパニーズウサギ小屋ホテルだった。ベッドに二人で腰掛けるとそれだけで満員感がある。
「なんですかその、せっかく二部屋とったのになんでここにいるのみたいな目は」
「そんな目はしていない」
問題は夜なのであって昼は大丈夫ですねとか言って、結局燈花は僕と一緒の部屋にいた。少し早いが二人で晩御飯を食べる。と言っても適当なコンビニのお弁当なのだが。気分転換にご当地の美味しいものでも食べたいが、何しろ朝しか外に出られないので、こうなってしまう。そろそろこの食生活にも飽きてきた。車に乗ってホテルの部屋にこもってという繰り返しで、運動もしないから(しないから)、お腹もあんまり空かない。燈花はそうでもないようだが。燈花は普通に弁当を食べ終えたと思ったら、カップ焼きそばを取り出した。
「え、それ今食べるの」
「はい、そうですが」
「なんか夜食とかなのかと思った」
「腹が減っては何とやらです」
「何だよ」
戦でもするのか?
「え、いま食べたらまずいですか?」
「いや……多くない?」
「多くないです。だって、そもそもカップ焼きそばって、何がカップなんですか?」
「話を逸らすな」
「逸してません。何がカップなんですか?」
逸しているだろう。
「いや、入れ物がじゃないの」
「これカップって言いますか?」
「うーん」
確かに単体でその入れ物を出されたらカップとは言わない気がする。四角いし。
「で、カップ焼きそばって、何が焼きなんですか?」
「は?」
「お湯を入れて作るわけですけど……何が焼きなんですかね」
そう言われてみれば確かに、焼く工程はどこにもないな。工場で焼いたものが入っているというわけでもないし。
だが、そこまで考えて、僕はこの疑問の行き着く先を直感する。
「それで、カップ焼きそばって、何がそばなんですか?」
おいおい。まさか。
「いや、その麺が……」
「蕎麦っていうのはですね、香織も知っていると思いますが、タデ科の穀物です。小麦粉から出来た麺を蕎麦っていうのは変でしょう。小麦はイネ科です」
「確かにそうだけど……燈花まさか……」
「そうです。これはカップでもなく、焼きでもなく、そばでもない」
そう言って燈花は湯切りしながら、不敵に微笑んだ。
「つまりこれは……無です」
「無」
「ゼロカロリーです」
ゼロカロリーではなかった。
「607キロカロリーって書いてあるだろ」
その熱量は、小さな体のどこに消えるのか。案外本当に無なのか。
僕は食後の薬を取り出して飲む。
「その薬、先月も飲んでいましたが、それは狼の薬ですか?」
燈花が言う。
「うん、鷲家口の丸薬、って言うらしいんだけれど」
「あのときは狼になることを防ぐ薬なのかと思いましたが、逆なんですよね」
さすが、燈花はそういうのはすぐ分かってしまう。僕の意識にのぼったことは、だいたい読まれてしまうらしい。
そう、これは狼化を促進し、スムーズに変化できるようにする薬だ。
「それも藤木先生が用意しているのですか」
「そうだね、藤木先生から送ってもらっている」
「そのあたりが解せないのですが」
燈花がカップ焼きそばをもぐもぐしながら言った。いや、無をもぐもぐしながら言った。
「解せない?」
「なんでわざわざ狼になるのですか」
燈花の咀嚼音だけが妙に部屋に響いた。
「いや……だから、怪火封じのために」
「薬を飲んでまでですか?」
燈花の言うことは分かる。
「狼にも定期的に活動する場がないと、力が弱ってしまうらしくって、だから濃度を適切に保つために月一度の変身が必要らしいんだ」
「それホントですか?」
「え……」
「そもそもですよ。なんかもっと楽な解決策はなかったんですか」
「だから、言ったじゃん、最初はそのつもりだったけど、怪火が強くなりすぎて、このまま単純に切り離すのは危険だからって言って、年月をかけて狼に抑えつけさせるしかなくなったんだよ」
それは僕のせいだ。所構わず火をつけてしまった、僕の潜在意識のせいだ。
「それは誰の説明ですか?」
「え、藤木先生」
「藤木先生は専門家なわけでしょう。もっと良い方法があると思うんですが」
そう言われると、そんな気もするけれど。
「それにその狼は、一体何モノなんですか?」
「どういう意味?」
「火盗除は確かに狼の持っている属性ですが、そういう日本の狼に、『満月になると覚醒』とかそういうの、おかしいでしょう。それに御札に書いてある絵も、なんだか日本のお犬様と西洋の人狼を混ぜたみたいで、まるで現代に作ったみたいなんですよ」
さっきから燈花が挙げる疑問は、当然のものだ。実際、ほとんど同じことを、僕は昔藤木先生に聞いたことがある。
「うん。現代に作られた妖怪だって言ってたよ。人口に膾炙したイメージを使ったほうが、効果が高いからそうしてあるんだって」
燈花は目を細め、疑わしそうに言った。
「都合が良すぎる」
そう言われても。現にそうなのだから。
「しばらく藤木先生には会ってませんが、その話を聞いて、なんだか信用できなくなってきました」
「あの人は変な人だけど、別に僕を騙してるってことはないと思うけどな……」
「どうしてですか」
「中学の時以来、ずっと面倒を見てくれているよ。僕が東京の高校に出てこられたのも先生のおかげだし……」
実際、何から何までお世話になっている。直接お金をもらってこそいないものの、奨学生で高校に入れたのも先生が手引きをしたんだと思う。大学に入ってからは減ったけれど、高校の頃は時々ご飯に連れて行ってもらう事もあった。父親代わり、と言えば言い過ぎだけれど、所詮は火鼠の件の負い目かも知れないけれど、あの人は僕にそんなに悪い感情は持っていないと思うのだ。事案おじさんでこそあれ。
「へえ……」
燈花がカップ焼きそばのカップを握りつぶして捨てた。いや、無のカップを……無の無を?
「やはり藤木は信用なりません」
「え、呼び捨て?」
「やつが娑婆に出てくる前に片をつけましょう」
「急に敵意出すぎだろ」
「明日の朝はぶっ飛ばしますよ。いよいよ本州脱出です」
ぱちんと燈花は手を打って、自分の部屋に引き上げていった。怖いわ。