5(占)
全身の皮膚があちこち痛み、骨は軋んで悲鳴を上げ、服は汗でぐっしょり、靴には吐瀉物が飛び散り、眼鏡はひん曲がって、それはもうとんでもない有様だった。
四字熟語で言うと満身創痍。
熟語じゃない四字でいうと死にそうだった。
一瞬の出来事だったように思える、あの蛇との死闘――というか、私が一方的にやられていただけだから、死闘というより蹂躙――は実際には意外と長かったのか。あるいは意識を失っていた時間が長かったのか。時刻はもう午前三時過ぎになっていた。当然、終電はない。
混乱して疲弊した頭は難しい解決を選べない。私はふらふらと身体を引きずって歩き始める。歩いて帰ろう。自宅まで、歩いても一時間かからない距離である。といっても、この脚じゃもう少しかかりそうだ……。
「おい、歩けるのか」
声に振り返るだけでも首筋に痛みが走る。見れば劫くんが戻ってきていた。もう目は光っていない。
「なんとか……」
「送ってってやる」
なんだ、優しいじゃないか。姉ちゃんの方とえらい違いだな。
「このままお前に行き倒れられたら、お姉ちゃんだって迷惑だからな」
「……そういうのは、最初に『勘違いするな』とか付けるともっと良くなるよ」
少年は舌打ちして顔をしかめた。
夜の交番に仄明かりが見えた。あんまりにもあんまりな恰好なので、職質とかされると大変だ。警官に目をつけられないよう、私は脚を引きずり引きずり、できるだけ早歩きでその前を通り過ぎる。昼間は車の行き交う大通りだが、さすがにこの時間は車通りもない。
「無量さんと劫くんは、なに、反体制の妖術使いとかそんななの?」
少年はこちらを気遣いながら、時折ふらつく私を支えてくれる。私はまだ混乱の渦中にあった。
「まあ、それでも間違ってはない。お姉ちゃんは普通に、人間だけど」
それはつまり、言い換えれば少年は普通の人間ではない、あるいは普通に人間ではないということになるけれど。いまの私は露骨にそれを掘り下げる元気がない。
「あの人は一体何者なのかなぁ」
なんだか知らないが、いろいろ知っているし。私のことや、はるかのことまで。
「……あの人は物語り」
少年がつぶやいた。
「物語?」
言って私はまたふらつく。少年が肩を支えてくれる。私より一回り小さいはずのその身体が、がっしりと心強い。
「物語じゃなくて、りを送って物語り。その名の通り、物を語る仕事だよ」
物を語る。語り部みたいな?
「近い。物語りの源流は稗田阿礼にある。だから語り部から派生した役割とも言える」
「はぁ」
語り部というと、古伝承を語り継ぐ人だが、あの人が一体何を語り継いでいるというのか。
「昔話をするとか、そういうことじゃない。物語りっていうのは。物語りは、物語を他人に語ることで、作用を及ぼす」
「作用?」
「人を動かすってことだ」
物を語って、人を動かす。
「お前も動かされたじゃないか。『蛇塚』の話に」
ぶん殴られたような気がした。動かされてる? 確かに私はあの話を聞かされて、それが原因で巡り巡ってこんなひどい目にあっている……。そういうことか?
「ところで、草苅はるかっていうのは、この間の病院で寝ていたやつだろ?」
唐突に劫くんが言った。車が一台、ハイビームをぎらつかせながらやってきて、私達二人を照らしてすれ違う。目の奥がぼうっと紫色にあてられて、平衡感覚がまたも持っていかれる。
「そうだよ」
「じゃあ、お前の家にいるのは誰なんだ」
それも、草苅はるかだ。
ドッペルゲンガー……?
「つまり、草苅はるかは病気か何かで意識がない状態で入院していて、その代りに出現したドッペルゲンガーが、お前の家に住んでいる」
「まあ、そういうとこ」
「本人は気付いてないのか?」
「……多分」
多分、草苅はるかは何も知らないのだ。
半年前のあの日、授業が終わった教室で、はるかは呆然としていた。その虚ろで混乱した目は、まるで魂が抜けたみたいだと思ったけれど、今考えればそれは逆で、魂だけが抜けてきてしまった顔だった。話しかけても会話はうまく成立しなかった。霞の向こうの、致命的にズレてしまった向こう側の世界と会話をしているようだった。鏡の国の物理法則はこの地球と違って、私達は通じ合えないのだ。私は狂った眼鏡を外して、直接彼女を覗き込もうかと思った。逡巡した。けれど結局それはしなかった。それだけは駄目だと、彼女だけは見てはいけない、視えてはいけないと決めていた。通じない会話を続けて、ただわかったのは、彼女が何かを恐れていて、そして家に帰れないと主張していることだった。それで私は、はるかを部屋に連れ込んだ。実家で家族と何かトラブルでもあったのかも知れない、一晩泊まっていけば落ち着くだろう、ちょうど金曜日だ、何なら土日はうちにいてもらっても良い。そう思った。
翌朝、はるかはなかなか目を覚まさなかった。正確には、起きようとしなかった。具合がわるいのかと問えば、そうではないようだった。しかし、起きたくないのだという。私はベッドサイドで本を読んでいた。背中にはるかの存在を感じながら、けれど何もしてあげられずにいた。時折はるかは寝返りをうつだけだった。子供が拗ねているみたいだと思った。
「いい、はるか。もう目は覚めてるんだろうから聞いて」
正午を回った頃、私は言い渡した。
「いま起きるなら。いま起きるなら、どうして家に帰りたいのか、私もう聞かない。詮索もしない。帰れるようになるまで、ここにいていい。ちょっと狭いけど、はるかさえ良ければ何日でも泊まっていって大丈夫。だから機嫌直して、起きて欲しいな」
ベッドにうずくまるはるかはじっとしている。
「いまから卵ハムチーズホットサンドを作るよ。庶民の味だからお嬢様の口にあうかは分からないけど、できるまでに起きて、一緒に食べよう」
そう言って私はキッチンに向かった。
ホットサンドが焼ける頃、そろりとはるかが顔を出した。背が高いくせに、小動物みたいな動きだったので、笑ってしまった。
以来、彼女はずっと私の家に住んでいる。毎朝のように、卵ハムチーズホットサンドを二人で食べている。
「お前はどうやって気付いた?」
そうだ、お前はどうやって気付いた。お前はどうやって、知ってしまった。
「知りたくないのに、視えてしまったから……」
眼鏡を外して直視することだけは絶対にしなかったし、日記にも意識的に書かないようにしていた。けれどある日、病院を訪れる自分が視えてしまった。心当たりはなかった。軽はずみに、実際にその病院に行ってしまった。待合室でぼんやりしていると、彼女の名前が聞こえた。その時はわからなかったが、彼女の両親の会話だった。ふらふらと二人についていった先に、草苅はるかの病室はあった。
なにが視えてしまった、だ。自業自得ではないか。私はそれを知っている……。
「はるかは、学校を休む事を変に嫌がってたから、多分自分が倒れて、学校にいけなくなっているという状況が許せなかったんだと思う」
それ以上のことはよくわからない。私は理由を聞かないと言った。詮索しないと言った。それなのに、彼女が肉体から抜け出しているということを知っているだけでも大罪だ。
「それでドッペルゲンガーが?」
「ドッペルゲンガーというより、生霊とか、幽体離脱みたいなものかもしれない……」
それでも彼女は幻覚ではない。私にしか見えないというわけでもないし、実体がある。けれど、私は怖い。いつ彼女が消えてしまうんじゃないかと、怖い。
「菊花の約……」
少年がつぶやいた。
「雨月物語、だっけ」
「そう」
「どんな話だったっけ」
頑張れば思い出せるような気もしたけれど、私はそう言った。
「聞かせてよ」
劫くんはしばらく目を揺らしていたけれど、ゆっくりとそれを、語り始める。私は痛む脚を引きずりながら、劫くんの肩にほとんど掴まりながら、その声に、その語りに耳を澄ます。
菊花の約。雨月物語巻之二。
清貧潔白の学者、丈部左門は、偶然に病に倒れた武士の看病をする。武士は赤穴宗右衛門といい、故郷の出雲国へ戻る途中であった。出雲の主であった塩冶掃部介が、尼子経久の謀反により討たれたとの報を聞いてのことだ。左門の献身的な看病で、やがて宗右衛門の病は快方に向かう。宗右衛門は左門の献身さに心を打たれ、一方の左門も諸子百家について宗右衛門と語らううちにすっかり意気投合し、深く通じ合った二人は義兄弟の契りを結ぶ。やがて、宗右衛門は出雲に向かって旅立つが、いつ戻るのかと頻りに問う左門に、菊の節句の日に再会しようと約した。さて、季節は夏から秋へと過ぎ、菊の節句がやってくる。左門は朝から準備をして待つが、日が暮れても宗右衛門は現れない。夜になってやっと、黒い影を纏った男が現れ、それが宗右衛門と知れる。左門は躍り上がって喜び、宗右衛門をもてなすが、宗右衛門の様子はどこかおかしい。訝しむ左門に、宗右衛門は、自分はもはやこの世の人間ではない、穢れた死霊であると告げる。出雲の国に帰った宗右衛門は、尼子経久によって監禁され、城を出ることは叶わなかった。このままでは左門との約束が果たせないと悩む宗右衛門は、「魂は一日に千里を行く」という言葉を思い出し自ら命を絶ち、陰風に乗って駆けつけたのだった。それを話すと、宗右衛門はかき消すように見えなくなってしまった。左門は嘆き悲しみ、単身で出雲へと向かい、宗右衛門の敵を討つ――。
「いや、でもこの物語は、草苅はるかとは違う」
少年は言った。
1.草苅はるかは死んでいない。宗右衛門は左門のもとに駆けつけるために死ぬ必要があったけれど、草苅はるかは、意識がないとはいえ死んだわけではない。
2.草苅はるかの魂の方は、自分が身体から抜け出していることに、気付いていない。宗右衛門と違って、自らの状況は何も知らない。
「お姉ちゃんなら、もっと良い物語が選べるはずなんだけれどな……」
少年は、悔しそうにそう言った。私は苦笑した。
「君がそんな風に、私とはるかのことを心配してくれるなんて嬉しいなぁ」
少年は舌打ちして顔をしかめた。
「別に。そういうわけじゃない」
微かに空が白んでいる。夜明けが近い。家も大分近くなってきた。
「俺たちのためにずいぶん働いてくれたから、貸し借りの無いように考えてただけだ」
「そういう意味じゃ、ものすごい貸しだと思うけどねぇ、これ」
それくらい身体はボロボロで、精神もズタズタだ。まぁ、突っ込んでいった私が悪い。そう思うことにするけれど。
「でも、お姉ちゃんはきっと、何かを用意していると思う」
少年は静かに言った。
「じゃあその見返りを、楽しみにするよ」