4(占)
二回目の実験はサボった。
雨が降っていたので。
入手した情報によれば、実験は一回欠席すると良、二回欠席すると可、三回欠席すると単位は出ないそうだが、逆に言えば二回までは欠席しても単位がもらえるということになる。あとは雨が続かないことを願えばいいということだ。本当か?
ちなみに雨が降っていたというのは嘘なので、私はベランダに干した洗濯物を取り込んでいた。だって毎日大学に行ったら洗濯物干したり取り込んだりする時間なくない? 秋の柔らかくて高い空を見上げて、私はしばらくぼうっとしていた。
……草苅さんにはちょっと申し訳ないが。
入手した情報によれば、欠席者がいた場合は適当なペアに混ぜて三人で実験をさせてくれる場合が多いようである。それならそこまで大きな迷惑でもあるまい。ああは言ったものの、毎週予習復習とか、面倒だし、こういうサボり癖のある人間だよというのを早めに知ってもらったほうが、お互い過ごしやすい。何度か携帯が鳴っていたが、無視した。
私は眼鏡を上げた。ぼやけた視界の向こうでは、何もかもが曖昧になる。視えすぎてしまう私の周りには誰も寄り付かなかったけれど、視えない私でも結局何も変わらない。私のほうが周りを遠ざけている。模糊とした世界との距離は縮まらず、けれど大学生という身分はそれもまた楽で。秋の空は何も言わず、夕焼け一歩手前で優しい表情で私を見つめていた。サボっても咎められない。素晴らしい。
「おーい」
……ん?
「三卜さーん」
はぁ、とベランダから下を見れば。
「三卜さん、大丈夫?」
声を張り上げているのは、他でもない、草苅はるかだった。
「え、なんで」
口の中でつぶやいた。きっと彼女には聞こえない。
「どうしたの? 今日実験来なかったから、心配で」
「や、どうしてここが?」
家の住所なんて教えてない。
「ああ、それは」
草苅はるかは何でもないように、大声で言った。
「考えたから!」
部屋に入れて聞けばこうだという。まず最寄り駅までは初対面の時に話題に上がったので、そこまでは知っていた。東口を出てすぐのところにロッテリアがあるので、駅の東側のエリアに住んでいるとあたりをつけた。あとは大学生が一人暮らしできそうな物件というといくつか候補エリアがあるが、三卜さんなら駅から近いとかコンビニに近いとかいう条件を重視しそうだと考え、多少絞り込みをかけた。ここまで考えた上で実際に駅に到着し、適当な方向に歩きながら考えを続けた。先週見せてもらった三卜さんの今学期の時間割は、履修数は多いにもかかわらず月曜日の午前をまるっと開けていて、理由は「寝たいから」とのことだった。しかし歩いていて看板が目に入ったが、今歩いているこのエリアは月曜に可燃ごみの収集がある。そうすると月曜はゆっくり寝ていられない。前日夜に出せるタイプのゴミステーションがあるような良い物件には住んでいないだろうし。そこで月曜が収集日になっていないエリアを探して歩いたところ、ベランダで呆けている私を発見したのだという。
「なにそれこわい」
「まあ、要はたまたま辿り着いたってことよ。そんなことより」
そんなことよりじゃないぞ。そこまで絞り込めた、現に辿り着いた、というのも怖いし、最終的に見つかる保証が一切ないのにとりあえず来てしまう行動も怖い。春からこの家に住み始めたけれど、客を入れたことはない。はじめての客人が、まだ一回一緒に実験実習をしただけの女の子で、家の場所を教えていないのに押しかけてきた。そんな未来は聞いてない。それは書かれていない。なぜ私はこれを予見しなかった?
「どうして今日、実験に来なかったの?」
草苅はるかは真顔で言った。
「ああ、ごめんね……」
「ごめんじゃなくて。どうして?」
目が据わっていた。怖い怖い。
「その、ちょっと体調が」
「体調が?」
恐ろしく冷たい声だった。どこから出ているんだ。
「体調が、悪かったというわけでは、特にないんですが……」
すぅ、と、草苅はるかは目を細めた。
「つまり…………サボりね」
「は、はい」
草苅はるかはそこで黙って、何かを考えていた。私は判決を待つ被告人みたいに硬直していた。どうしてこんな事になっているんだろう。同級生に説教されたことなんて、私にはない。それどころか、高校まではどちらかと言うと……恐れられていたから、上から目線で私に物を言う人間は、いなかった。
「ねえ、八恵」
「ふぁい」
急に下の名前で呼ばれて、変な声が出た。
「お願いだから、学校にはちゃんと来て」
そう言って草苅はるかは身を乗り出した。
「え、うん、ご、ごめん」
なおも彼女は、頼み込むように言う。
「せめて連絡が通じるようにして欲しいの。電話も出ないから、心配で」
「ごめん……」
そう言って顔をあげると、草苅はるかは顔をクシャクシャにして、涙ぐんでいた。先週初めて会ったときは凛として大人びた、端正な顔立ちだと思ったのに、それが台無しだった。私は慌てた。いくらなんだって、私が一回サボったくらいで、そこまで思い詰めるだろうか?
この草苅はるかという人間が特殊なのだろうか。
あるいはこれが、遠く東京に出てきて眼鏡をかけた効果、なのだろうか。
この子は一種異様だと思うけれど……今までに会ったことのないタイプには違いない。
「でも良かった。八恵が消えてしまわなくって」
はるかはポツリとそうつぶやいた。私は消えるだなんて大げさなと思った。
そうしてその日のことを、草苅はるかのことを、日記には書かなかった。