2
草苅はるかは何も知らない。
一九九四年五月五日、埼玉県越谷市生まれ。両親はどちらも中学校の教師。一人っ子。父方の祖父母と同居。帰りも遅く休日出勤も多い両親よりむしろ、祖父母に溺愛されて育つ。何か一つのことに熱中すると、並外れた集中力を発揮する。頭の中が冷たく冴え渡り、自らの心臓の音さえも凛としたものに変わる、とは彼女が小学校の卒業文集に残した表現である。幼少期は、砂遊びであったり木登りであったり、その集中力は専ら外遊びに使われていた。祖父が脚を悪くして以降は、飼っていた柴犬のハチが、門限を過ぎても帰ってこない彼女を家に呼び戻す役目を果たしていた。ハチの手綱で引きずられながら帰宅して、けれどもまだ彼女の心は公園の遊び場にあったものだった。
やがて小学校四年生になった彼女を両親は、学習塾に通わせた。これが彼女の生活パターンを大きく変えてしまい、公園で遊ぶ時間はめっきり減った。行き場を失った彼女の集中力は、しかし幸いなことに、両親の願い通りに勉強に向かい、成績はぐんぐんと伸びていった。一番得意だったのは算数だったが、一番好きだったのは国語だった。活字にのめり込み、図書室の本を端から乱読して、六年生になる頃には祖父の本棚を渉猟するようになった。ページをめくっているうちは梃子でも本を離さなかった。彼女の両親はどちらも公立校の教師だが、娘には中学受験をさせた。勉強が好きみたいだから、挑戦してほしい、ということに二人の間ではなっていたが、それがどこまで本心だったのかは、彼女自身にとっても知れなかった。あるいは内実を知り尽くしている公立中学には、娘を進学させるのに躊躇う何かがあったのかも知れなかった。しかしそんなことをわざわざ彼女は両親に尋ねなかったし、尋ねても答えは返ってこないだろう。そういったタイプの、いわば意思がそれほど明確でない、強調されていないタイプの中学受験というのは、実際のところありふれたものであって、別に珍しくもない。教育熱心な母親が、我が子を叱咤激励して勉学に向かわせるという、いわゆるお受験ママ的な光景は、現実にはそう多いものでもないのだ。平凡な家庭。平凡な塾通い。だから彼女のイレギュラー性は、ひとえにその異常な集中力だけだった。一度勉強に打ち込んでしまった草苅はるかは、いくところまでいってしまった。志望校を選ぶのに、両親も本人も、これと言った意思はなかった。ただなんとなく、提示された幾つかの案について、ミッション系は違うのではないか、とノンポリの父は言った。母親も同調した。両親が示した意思は本当にそれくらいで、あとは塾の講師に言われるがままに、偏差値表の一番上の学校を志望校に設定した。両親ははるかを学校説明会に連れていき、校舎を眺めた彼女はただ頷いた。あとは別に、努力の必要はなかった。彼女は集中するだけでよかった。極めて自然に、平常心で、彼女は受験を成功裏に終える。かくして彼女は、中高一貫の名門私立女子校である、忠弥坂学園に進学した。
中学受験を目指す子供たちの塾の教室を見れば一目瞭然な事実であるが、優秀な成績の子供と言うのは、男子と女子とで精神的な成熟に大きな隔たりがある。偏差値70オーバーの小六の教室でそれは極めて顕著であり、女子は中学生を飛び越えて、平均的な女子高校生くらいの雰囲気を湛えているものである。それと比べて男子は受験勉強の上ではどんなに規格外の天才であろうが、休み時間にはいかにも小六男子であり、馬鹿騒ぎをして女子から白い視線を送られている。
さて、草苅はるかはイレギュラーだった。そのどちらでもなかったのだ。男子のように幼いでもなく、女子のように成熟してもいなかった。彼女はただ勉強が出来てしまう、それだけだった。だから中学に入って、制服に袖を通して、周囲が知的にも精神的にも年不相応に成熟した女子だらけになった初日に、初めて自分と周囲の違いを理解した。中学に入ったら、きっと勉強はうんと難しくなる、何しろ優秀な生徒ばかりなのだから、予習復習をしっかりしないとすぐについていけなくなって、落ちこぼれてしまう。両親はそれを心配していた。しかしはるかは、幸いにもすぐ気づくことが出来た。勉強に心配はない。それよりも心配なのは、周りの女の子たちが湛えている余裕、醸し出される大人びた空気、これにどうやってついていくかだ。
今日この入学式の日、240人の新入生の皆さんを迎えることが出来ました、と校長先生が言った。240人。彼女は急に、自分がとんでもない場所に来てしまったように思えた。周りの239人は皆、そのような事実に動じずに、きっと前を向いて、校訓を語る校長先生に聞き入っている。彼女は怖気を震うと同時に、心底安堵した。今、すぐに気づくことが出来て良かった。これに気付けずに、今までのままの自分で時間を過ごしてしまったらと思うと、分岐点の向こう側の自分がひどく恥ずかしく、一人で赤面した。それから彼女は、祖父母に甘えるのをやめた。歩きながらぼうっと物を考えるのをやめた。飼い犬に手綱を引かれるがままにするのをやめた。自分の一つ一つの所作が周りからどのように見られるのかを考えた。通学の電車の中に乗っている大人たちの一人一人の目を、学校のクラスメイト一人一人の目を、自分の中に取り込んだ。二日目の通学からは、彼女は水道橋からの景色を意識することが出来たし、校名の由来でもある忠弥坂を登ることを楽しむことさえ出来た。昨日までの自分は、道のことなど何も覚えていなかったから。
それすらも別に、特別なことではない。自身の相対化が、難関中学に入学する周りの女子よりは遅く、一般的な女子よりは早かった、それだけである。
クラスメイトに、深水瑞希という子がいた。
六月に、一年生の全員が参加する夏期学校がある。忠弥坂学園の目玉行事の一つであり、二泊三日の高原旅行で親睦を深めようというものだ。日中の行動班で、はるかは瑞希と同じ班になった。同じクラスだがそれまであまり話したことはなかった。背が低くて、写真部に入っていて、時々重そうなカメラを持っているのを見たことがある、その程度だった。ちなみに、小学校のクラスメイトや塾の生徒たちにははるかは一切関心を払っておらず、同じ教室にいたメンバーを今となっては一人として覚えていないのだから、深水瑞希と話したことがほとんど無くても顔と名前が一致して、部活くらい覚えていたのは恐るべき進歩なのである。はるかは絶対に誰にも言わないようにしていたが、彼女は入学三日目の時点で一年生全員の名前を暗記しており、六月には他クラスまで含めて顔と名前の一致もほぼ完璧になっていた。それが小学校までの自分とは違う感じがして、密かに自慢だった。
「写真、撮らないの?」
山頂へ登るゴンドラの中で瑞希と二人になって、しかし彼女が首に下げたカメラを持ち上げようともしないのを見て、はるかは不思議そうに言った。ガタガタと揺れながら登っていくゴンドラからの景色は、まさにシャッターチャンスではないかとはるかは思ったのだ。
「あ、やば」
瑞希はそう言って苦笑した。そうして言い訳みたいに何枚か、パシャパシャと写真を撮った。
「草苅さん相手だと油断しちゃうな」
「油断? 何が?」
「別に写真、興味ないんだよね、ホントは」
「そう、なんだ」
忠弥坂の部活は全員入部必須だから、何かしらには入らなくてはならない。だから特にやる気のない部員というのはどこにでもいる。珍しくはない。はるかにしても、弓道部に入りはしたものの、取り立てて情熱をかけて取り組んではいなかった。
「これもお父さんのカメラでさ、貸してやるって言うから断れなくて。重いんだけど」
なるほど彼女が抱えるカメラは、いかに忠弥坂に裕福な家庭が多いとは言え、女子中学生が買いそうにはない一眼レフだった。
「私だと油断しちゃうって、どういうこと?」
「ああ、ごめんね、なんかすごい失礼な言い方だったね。別に変な意味じゃなくって」
瑞希はバツが悪そうな顔で言う。
「草苅さんは、なんだろう、隙を狙ってるような人じゃないと思ったから」
「……隙を狙う?」
「なんていうのかなぁ、無理してハイセンスな写真女子のキャラを演じなくてもいい、っていうか」
「ハイセンスな写真女子のキャラ?」
はるかは、瑞希が何を言っているのか全然わからなかった。
「だからさ、私が別に写真好きなわけじゃないって、草苅さんにはバラしちゃったけど、草苅さんはそれを他の人には言わずにいてくれるでしょう?」
「言わないほうが良いなら、そうするけど」
「うん、そうして」
瑞希はファインダー越しにはるかを覗いて、シャッターを切った。
「え、急に撮らないでよ」
写真を撮られたのに遅れて気付いたはるかは慌てる。
「『きょとん』ってキャプションつけて、文化祭で展示していい?」
「や、やめてよ深水さん」
「瑞希でいい。私もはるかって呼んでいい?」
「それは良いけど、写真はダメ」
その後の日中、はるかは上の空で過ごした。
集中して考えてしまったからだ。
草苅はるかは何も知らない。
さすがに皆が寝静まった頃、そろそろと部屋を抜け出す人影を目の端で追うと、はるかも布団から這い出した。昼間は初夏の陽気だった高原も、夜となれば底冷えする。カメラを抱えた女の子を追いかけてウッドデッキに出ると、身体の芯がぞわりと冷えた。
深水瑞希はカメラを抱え、写真を撮るではなく空を見ていた。のぼってきたばかりの欠けた月が、瑞希の降ろした黒髪を不思議な輝きに包んでいて、せいぜい何メートルかしか離れていない彼女を、宇宙の向こう側に望むような気がした。はるかは急に、自分もカメラが欲しいと思った。この光景を切り取れたならと思った。
「あれ、はるか」
気づくと瑞希がこちらを向いていた。
「見つかっちゃったか」
「……ねえ、瑞希」
はるかは今、人生の今までのどんなときよりも緊張して、必死に言葉を選んでいた。
「なぁに、はるか」
「昼間、言ってたことの意味。私、考えたんだけど……」
ふふ、と瑞希が笑った。
「どうして笑うの」
「ごめんごめん、ふふ、だっておかしくって。そうだよね。はるかすごい考えてたよね。真剣な顔でさ。話しかけても上の空だし。お風呂ものぼせちゃうし」
はるかは赤面した。お風呂だって? そもそも風呂に入った記憶すらなかった。
「あはは、で、考えて何かわかった?」
「……皆、お互いの隙を狙っている」
続けて、という顔で瑞希は微笑む。
「自分に設定した、キャラクターというか、自分らしさみたいなものが、本物なのか、偽物なのか、本当の自分を出しているふりをして、演技しているだけじゃないかって、お互い疑って、互いの本当を、見極めようとしている」
「それを、あなたは、考えてわかったの?」
はるかはゆっくりと頷いた。とんでもない大発見だった。入学式の日から感じていた周囲の大人さは、皆がそうあるべく自分を着飾っていたものだったのだ。しかもそうして、他人の仮面を暴こうと、笑顔の裏で虎視眈々と互いを狙っている……。
「普通そういうのって、考えてわかるものでもないと思うけど」
瑞希は呆れて言った。
「……はるかって、面白いね」
その声の仄暗さに、はるかはぎくりとした。呆れでも、軽蔑でもない、異様な感情が、その声音には、その一瞬だけ漂っていたのだ。それは嫉妬に他ならなかったが、はるかにはそれが何か、皆目見当もつかなかった。何しろ、その感情を、本当に差し迫ったその感情を、彼女はまだ知らないのだから。
「ねえ、はるか。今度、二人で写真を撮りに行かない?」
「写真?」
「そう。結構楽しいよ?」
「さっき、ホントは別に興味ないって、言ってたじゃない」
瑞希の瞳の奥に、欠けた月が見えた。
「それも嘘かもしれないでしょ?」
草苅はるかは何も知らない。
深水瑞希はやがて不登校になった。名門、忠弥坂学園において、そんな生徒は稀である。しかし、ゼロではない。瑞希の家庭環境はもともと良好とは言えなかったが、彼女が中学に入ってからバランスを欠く状態だった。両親の不和は瑞希の精神にも大きく影響を及ぼし、彼女は学校生活に集中することは出来なかった。これが他の生徒だったならば、家庭で安心出来ない彼女が学校に居場所を見出すということもあったのかも知れないが、彼女の場合はそれも難しかった。なにしろクラスメイトが全員敵で、互いに騙し合っているという世界観に生きているのだ。気を許せる瞬間など、それこそ草苅はるかのような、何も知らない子と二人だけの時くらいだったのだろう。
教室に姿を現さなくなった瑞希のことを、はるかは初め、非常に心配した。長期で学校に来られないとはどういうことか、わからなかったし、不安だった。実際には小学校のクラスメイトにも不登校はいたのだが、はるかはそんな事覚えていやしなかったから、これは彼女にとってはじめての感情だった。担任に連絡先を教えてもらい、家に電話をかけて話してみた。瑞希は、ちょっと疲れちゃっただけ、すぐまた学校に行けると思う、と言った。はるかは安堵して電話を切ったけれど、待てど暮らせど瑞希は登校してこなかった。もう一度電話をかけようかと思ったが、なんと言えば良いのか、はるかはわからなかった。登校中に集中して考えすぎて、考えて考えて、三鷹まで乗り過ごして学校に大遅刻をした。それでもわからなかった。そんなに考えたのにわからないことなど初めてだった。
何も出来ないままに、何も知らないままに、草苅はるかは高校生になった。といっても、中高一貫だから、制服のデザインも変わらないし、キャンパスも変わらない。卒業式も入学式もない、と思っていたが、高校一年の始業式は少しだけ形式張ったお話があった。とはいっても内容は特に代わり映えしない、勤勉、温雅、聡明たれ、という話で、はるかはさほどの注意を払ってはいなかった。
だが。校長が何気なく言った言葉に。数字に。彼女は考え込んでしまった。
「この忠弥坂で共に学ぶ、学年239人の皆さんは」
なんだって。
239人?
草苅はるかは考える。集中する。頭の中の、生徒名簿を引っ張り出す。同じ学年の一人一人の名前を、名簿順にたどって、数を数えていく。彼女は全員の顔と名前を記憶している。それを数えることなど造作もない。数え終えたら逆周りでもう一度数える。クラスごとに数える。三年のときのクラスごとに数えて、二年のときのクラスごとに数えて、一年のときのクラスごとでももう一度数える。部活ごとに数えてみて、クラスで分けずに五十音で数えて、順不同に思い出す順に数えてみる。
それでも数が合わない。240人いるはずだ。1人、減っている。考える。考える。考える……。
「草苅さん?」
声をかけられて我に返る。新しいクラスの担任が、講堂に立ち尽くす彼女を訝しげに見つめている。
「教室に戻りますよ」
「……先生」
「はい?」
「深水瑞希さんは、退学になったんでしょうか」
それが、彼女が考えて出した仮説。
「深水、瑞希さん? ……ごめんなさい、誰だったかしら」
そして、考えたのに間違えた、はじめてのことだった。
草苅はるかは何も知らない。
クラスメイトに手当たり次第聞いてみたが、誰も深水瑞希という名前を、人物を、覚えてはいなかった。一年のクラスの友人や、担任すらも、知らないと言った。頭の中のではない、紙の名簿を手に入れて、上から下から斜めから何度も数えたが、239人しか載っていなかった。深澤百合の次は細田紫織だった。学年主任は入学時点から名簿に増減はないと言った。
家に帰ってベッドに横になり、彼女は考え続けた。深水瑞希はなぜ消えてしまったのか。そもそも存在したのか。本当に消えるということがあるのか。学校中が皆、彼女の存在をなかったことにしようと謀っているのだろうか。そうでなければ、全て私の思い違いで、深水瑞希は幻覚か何かだったのか。
翌朝になっても彼女はまだ考え続けていた。寝坊などしたこともない孫を、はるかの祖母が起こしにやってきた。
「はるか、どうしたの。具合悪いのかい」
はるかは答えなかった。まだ考えていたから。ちなみに、具合が悪いなんてことはない。草苅はるかは風邪を引かない子だったし、事実中学の三年間で遅刻こそ一度あったが、欠席したことはなかった。だから祖母も、何の悪気もなく、はるかが何か悪い状態にあるとは露程も思わず、部屋に入って声をかけた。
「ほら、学校に行かないと、友達が皆心配するよ。それか、忘れられちまう」
忘れられる。
はるかは跳ね起きて、鏡を見た。酷い顔だった。初めて自分がどうやら泣いていたらしいと分かった。けれど、そんなことを気にしている場合ではなかった。学校に行かなければ。ともかく、学校に行かなければならない。そうしないと、忘れられてしまう。消えてしまうのだ。
確かに夏期学校で親しく言葉を交わしたし、あの夜の彼女の横顔を、よく覚えている。けれど、それ以降特に仲がよかったのかと言われれば答えに詰まる。写真を一緒に撮りに行こうとか言われたけれど、それは実現しなかった。一緒に遊んだことも、一緒にお昼を食べたことも、登下校が一緒になったことすら、なかったはずだ。だから深水瑞希がかわいそうだと思っているのではなく、私は、私も同じように消えてしまうのではないかというのが怖いのだ。草苅はるかは何も知らないが、そこまでは考えて分かることが出来た。そして、それがひたすらに、恐ろしかった。