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地下鉄で家に帰る。駅前のタジマで食料品を買って、闇夜に浮かぶ扁平な団地を眺めながら家に帰る。一人暮らしも時が経つと買い物も大分うまくなってくるものだ。安い肉を手に入れた僕は今晩のメニューを考える。僕はとりあえず肉と野菜を炒めればいいだろうと考えた。要するに具材があって味付けがあって火が通ることによって何らかの食べ物が発生する。簡単だ。一人暮らしも時が経つと料理も大分めんどくさくなってくるものである。
身体のこともあったし、はじめ母は僕の一人暮らしをかなり心配していたけれど、僕に言わせればこちらの方が余計な心配をしなくていいのだし、気持ちは楽だった。
マンションの四階の自室に入ると、そこに僕がいた。
神谷内香織が僕を見つめていた。
一瞬どきりとするが、もちろん玄関に置いた鏡に写った自分だ。
「ただいま」
僕は言ってみる。鏡からはもちろん答えは返らない。
肉と野菜を炒めて食べた。オイスターソースとマヨネーズを合わせてみたがわりといける。ちょっと塩辛いかな。まあ大体なんとかなるものである。食後の薬を飲む。白い錠剤。やや大きな正円。舌に乗せるとビリビリと苦い。多めの水で飲み込む。飲み下す。飲み干す。自分の中の怪物を飲み込む。水を飲む。もう少し水を飲む。胃に悪い薬だから。
厄介なものだが、薬を適切に服用していれば、問題なく日常生活を送ることができる。薬は飲み続けなければならないし、月に一度はどうしても困ることがある。けれど、それもいずれは、きっと解決されるだろう。それがどれほど先か、わからないけれど。どのみち僕はもう、慣れてしまった。
それでも不安が完全に消えるわけではない。
このマンションの壁は音を吸う。
僕は自分を知りたい。僕は自分を知らなければならない。
僕はドッペルゲンガーについて考える。
僕自身。
生き写し。
影患い。
もう一人の自分。
気持ちが悪いのは、僕が僕自身を目撃した上、みとはちさんもどうやら僕を目撃しているという点である。
みとはちさんが目撃したというだけでは、みとはちさんの勘違いだとか、見間違いだとか、あるいはまた質の悪い冗談だとか、そういう可能性をあげることができるだろう。
逆に僕が見ただけであれば、僕の頭が狂ってしまったものとして処理できる。できないけど。
自分を含めた二人の目撃者がいたら、普通はそれを疑わない。
ならば。
ならば彼女は、そこにいたのだろう。
もう一人の神谷内香織はそこにいたのだろう。
僕はそこにいたのだろう。
僕は自分を知りたい。僕は自分を知らなければならない。
自分の知らない自分が怖い。
図書館で借りてきたドッペルゲンガーの本を取り出して表紙を撫でる。シャワーを浴びて、歯を磨いて、ベッドサイドの小型カメラの電源を入れて、部屋の照明を落として、ベッドに寝転んでそれを読み始める。
いつ眠ってしまってもいいように。
僕はベッドサイドのカメラのレンズを見つめる。
ぼんやりと、思念を漂わせる。
都市伝説化した半妖狐について。
なんだか今日の議論はうまく議題設定に乗せられたというか。都市伝説の話しかしていない。資料A群に対する読み込みが甘すぎるのではないだろうかと感じた。
あの話はやけに新しい。
本当に玉藻御前伝説に影響を受けているのだとすれば、玉藻御前の話が庶民に流行したのは江戸時代であるし、相当に新しい。二十年前に最後の出現の記録があるというようなことが触れられていたが、資料中そのことが語られていない。普通に考えて二十年前なら色々検証が可能だ。それをしないわけがない。したはずだ。なのに載せていない。何か隠しているのだと思う。
……まあ、そんな現代よりの超常現象を検討していたら、本当にオカルト研究会になってしまうけれど。
半人半妖として生まれ、人間からも妖怪からも疎まれて生きる存在に対して、僕は少しの哀れみを感じる。それは人間を恨んで悪さをしても仕方ないのかもしれない。でもきっとそれも悲しいはずだ。心は貧しく、そんなことでは決して満たされない。悪さをして、悪さをして、それでも満たされない。乾いている。空虚だ。けれどやめられない。やめたら何をしていいかわからないからだ。
それに共感するの?
意識の向こうで、僕が言った。
僕は答えなかった。共感、だろうか。そうなのかもしれない。
自分も似たような境遇だから。
違うと思った。
親の話じゃなくて。心当たりはあるくせに。
僕は答えなかった。
僕は冷たく見下すような目で、薄笑いを浮かべて僕を見ていた。そんな表情をしているから、時々怖がられるのだ。「神谷内さんってちょっとこわい」、時々そう言われる。怖い、というかそれは、単に疎んでいるだけだろう。邪魔に感じているだけ。
君もそう思うの?
僕が言った。
僕は答えなかった。喧騒が戻ってくると周囲は学校の教室になっている。赤紫の斑点がリノリウムの床に張り巡らされて僕たちを待っている。顔のない生徒たちが笑う。笑う! 僕だけが一人薄笑いを浮かべて君を見ている。
踊ろう。
僕が言う。
僕は答えなかった。君は机の上に立ち上がる。机が汚れた教科書を地面に吐き出す。さあ、君はそう言って僕に手を伸ばす。僕の手が指先までぴんと伸びて。君の海が広すぎるからいけないんだよ。僕たちは何人でも飼えるんだ。
僕と君は同じだから、体温は同じで、触れる手の間で熱は移動しない。
僕は僕にリードされて教室の海をゆっくりと回転する。波打つように重心を上下させる。僕と君は同じだから、体温は同じで、触れる腕の間で熱は移動しない。僕と君は同じだから、体温は同じで、抱いた肩に熱は移動しない。僕と君は同じだから、体温は同じで、触れる頬と頬で体温は移動しない。
彼女から、僕のにおいがする。
けれどね。
僕が言う。
いま、君は僕のことが分かる?
分かる。
いま、君は僕が次にどうするか分かる?
分かる。
ほんとうに?
……わからないかもしれない。
そうだよ、分からないんだ。
僕がステップを反転させる。予想外の動きに僕はぐいと引かれ、なんとかそれについていく。
僕は自分のことなのにわからない。
僕は自分のことなのにわからない。
怖い?
怖い。
怖いよね。
怖い。
たとえば。
僕がぐいと近づく。
僕の目の前に僕の顔がある。僕のにおいがする。僕の息遣いが二人分漂う。
「たとえば」
僕の唇だけが動く。
「学校を」
爆発の大音声が広場に響き渡り、建物の窓ガラスが弾け飛んだのを一瞬遅れて理解する。大学だ。大講堂が燃えている。これはあのころの学校じゃない。大学だ。空が焼けている。耳障りなサイレンが響き渡り、僕が芝生の広場を横切っていく。置いていかれた僕は呆然とする。放射してくる熱で、顔が、髪が、燃えそうに熱い。炎が講堂を舐め上げる。表皮が熱で剥がれて落ちる。
なにを。
いま、君は僕が次にどうするか分かる?
みんなの悲鳴が聞こえる。僕は冷たく見下すような目で、微笑を浮かべて僕を見ている。
怖い。悲鳴。サイレン。炎で柱が倒れる音。ヘリコプターの音。怒号。熱。人間の皮膚が焼けるにおい。絶叫。知っている声。知らない声。僕の声。
僕は汗だくになって目を覚ました。
叫び声と赤い光が頭のなかにちらつき、僕は天井を見上げて荒い息を吐いた。
ドッペルゲンガーは、監視カメラでは見張れない。
僕はそのことに気付いて愕然とした。
僕は肩で息をする。携帯のランプが緑色に点滅している。午前二時半。手にとって液晶のバックライトに目を細める。目に突き刺さる光の向こうで、メールが届いている。メールなんて滅多に送ってこないのに。
たった一行だけのメールだった。
「夜に外を出歩かないように。殊に危険だ」
夜に外を出歩かない。そんなことは分かっている。
それでもわざわざ送ってくるからには、何かあるのだろうなと思った。『殊に』とはなんだろう。変な言葉だ。いつもよりもっと危険ということだろうか。昼も危険だが夜はもっと危険、というふうには解釈できまい。夜はいつも危険だが、今は特別危険だと言いたいのだろう。なぜ。わからない。
僕も一行だけのメールを返す。ほんとうは二十行くらい打った。けど消した。
「気をつけます。いつ戻りますか」
返事は返ってこないだろうなと思う。そうして少しの間ぼんやりとベッドの上でうずくまっている。表通りを車が一台、通って行く音が聞こえる。消防車のサイレンの音は聞こえてこない。この携帯電話だけが世界と繋がる糸口で、そしていま携帯電話は何も応えてはくれない。僕のところに助けは来ない。だめだ。もう一度眠れそうにない。僕は明かりをつけて、また本を読む。
小さな監視カメラが僕を見ている。
そのカメラの向こうにいるのもまた僕だ。僕は自分を監視する。