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その日、ゼミの後はシフトが入っていた。
僕のバイト先、『衣装のウラヅキ』は、いうなれば「え、こんなところに?」と言いたくなるような場所にある。昭和通りと靖国通りと神田川に囲まれる東京のド真ん中であるが、ほとばしる場末感。細い路地の向かいは怪しい中華料理屋『饗宴楼』である。僕がバイトを初めてから一度も営業しているのを見たことがない。
店名から貸衣装屋であることはすぐ知れよう。しかしこんなところで成人式や結婚式の衣装を借りようという人が何人いるものか。僕は働きながら数えたので知っている。一人ひとり思い出しながら指折り数えてみると、指が折れなかった。ゼロ人である。
店には無限に近い数の衣装が置かれている。貸出も販売もやっているのだが、これ借りて(あるいは買って)どうするんだろうというタイプのものと、これ借りて(あるいは買って)そうするんだろうなぁというタイプのものばかりである。前者は例えば電磁波完全遮断サイバーパンクコートであり、後者は例えば都内女子校全制服シリーズである。まあ後者に関しては、神田川を超えればコスプレ用品を取り扱う店なども多い土地柄というところがあるのかもしれない。
「でさぁ」
クリーニング業者から返ってきた目黒女子学院の制服(冬)をしまっていると、奥からのそのそと出てきた店長が話しかけてくる。店内は薄暗く、バックヤードだけが煌々と明るい。
「神谷内さんは、何でこのバイトやってるの」
「それ、店長が聞くんですか」
現れた店長が、小説で主要キャラに語らせたい内容を引き出すきっかけを提供するためのセリフみたいなことを無理やり言った。無理があった。僕は自分が小説の主人公だった場合に備え、意地でもバイトを始めたきっかけを想起しないようにする。
店長は白髪痩身年齢不詳のちょっとヤバい感じの男性だ。変な色のサングラスとかかけている。
「だってほら、この店怪しいし、僕も白髪痩身年齢不詳のちょっとヤバい感じだし」
「それ、店長が言うんですか」
「あと変な色のサングラスとかかけてるしね……。神谷内さんが辞めたくなったら、いつでも言ってくれて構わないからね」
「辞める予定はないですが」
大した仕事が無い割に時給は良い。大学からも近いし、シフトもかなり自由が効く。自由が効くというか、たいして客が来るわけでもなく、僕が急用で抜けても店長が適当に店番していれば済むわけで、じゃあそもそも僕は必要なのかが甚だ怪しい。だがわざわざそこを指摘する必要もないと思う。雇用は創出した方がいい。
「ところで店長」
「うん?」
「ドッペルゲンガーってわかりますか」
店長が座っている丸椅子の上でわざとらしくずっこけた。うざかった。
「えぇ……なに神谷内さん、急にオカルトに目覚めたの?」
「そういうわけではないんですが」
店長くらいヤバい感じの人だと、ちょっとヤバい感じの話でもできる気がする。だから僕は、先輩にはドッペルゲンガーを見たと言い出せなくても、店長になら抵抗はなかった。とはいえ、いきなりドッペルゲンガーを見たというのもさすがにヤバい感じがするので、一般論で話を振ってみただけだ。
「まあ、そっか。神谷内さんイマドキの女の子って顔してるけど、学校だとそういうのが専攻だったもんね」
「オカルト専攻ではないです」
「あれだよね、ちょっとヤバい感じの専攻」
「ちょっとヤバい感じではないです」
ちょっとヤバいかもしれないか、と思い直した。
「オカルトな衣装が着たいお友達とかいたら、連れてきてね」
「そんな友達はいない」
以前一度だけ、語学クラスの忘年会の余興で仮装衣装がいるというので、うっかりこの店を友達に教えてしまったことがある。そこから一時期うちの学生の間でこの店が静かなブームとなった。といってもほとんどは金を出す客にはならない。せいぜいTwitterに投稿する画像の狩場にされていただけだ。僕は写真撮影禁止の札を作成して店内そこら中に貼り付けた。効果がなかったので、商品を盗撮する奴の顔を盗撮して店の公式Twitterで晒しますと書き足したら効果があった。公式Twitterは炎上した。それでも店長は、もう一度ああいうのを期待しているらしい。店に人が溢れてる感じがいいんだとか。
「ドッペルゲンガーねぇ……自分と同じ姿の人間でしょう。それってちょっとヤバい感じだよね……」
確かに店長のドッペルゲンガーならちょっとヤバい感じになるだろう。
「でも僕見たことあるな、ドッペルゲンガー……」
「え、ホントですか」
それはちょっとヤバい感じだなと僕は思った。
「あー、うん。あるよ。もうずいぶん昔だねぇ。僕はその時あるビルにいてね、ビルというか、なんだろう、なに、こう、『会場』みたいなところかな。それで、トイレに行こうとしたら僕のドッペルゲンガーがいてね」
「急だな」
「そう、急だったんだよ。急にこう、ぐわーっときてさ。ぐおーっていう感じで。それで本当にそっくりなんだよ!」
表現が雑だった。
「鉢合わせたんですか?」
「そうそう、もうホントそっくりでさ。黒くてさ、触覚というか角というかみたいなのが二本生えてて、目も口もない顔の真ん中が黄色く光ってて」
「それ店長じゃないでしょ」
「いやいや、そっくりだったんだよ! 変な鳴き声を発していてね、例えるとゼットンみたいな」
「ゼットンでしょう」
「ゼットンだね」
僕はレジの裏に吊ってあるゼットン特撮衣装を見た。バックヤードの蛍光灯に反射してその目だかなんだかわからないところと胸だかなんだかわからないところが妖しく光っている。
「ゼットン」
「うん」
「要するに仮装パーティーみたいなのにゼットンで行ったら衣装が被ったっていう」
「あれだけ派手にかぶったのはあの時だけだなぁ……」
店長はサングラスの奥で目を細めた。
「衣装というのは、装いだからね。自分とは違うものになる。意味を装う。それが他人とかぶってしまうというのはねぇ、あいでんてていがねぇ」
「大変なんですね」
大変であるとは露ほども思っていなかったがそう言った。
「パワードにしておけば違ったのかもしれないなぁ」
多分こういう無意味な会話によって時給が発生しているのだろうなと思う。僕は時計を見て、なんとなく今日の労働時間と時給を掛け算した。大した額にならない。三兆円欲しい。
「つまりね、ドッペルゲンガーに出会った時というのは、相手が偽物で自分が本物、偽物である相手が自分の姿に化けている、相手がコピーで自分がオリジナル、と思ってしまいがちなのだけれど、実は化けているのは自分の方かもしれないよ、ということだねぇ」
この人やっぱりちょっとヤバい感じだなぁ、と僕は思った。