15(占)
悪い夢を見ていた。悪い夢だったと思いたかった。一度立ち上がって、私は胃の中の物を思いっきり吐き出した。裸足の足にまで吐瀉物がかかった。吐き出してしまうと一気に力が抜けて、尻もちをついた。まだ頬にあの冷たい感触が残っていて、背筋が一気に冷え込んだ。
「お疲れ、占い師様」
音もなく闇の中から現れた無量は、やはり黒いライダースーツを来て、無言でいればスタイルの良い身体もそのまま闇に溶けてしまいそうだった。私は地面に転がっていた眼鏡を拾ってかける。フレームが歪んでいるが、かろうじて眼鏡の役目を果たさないことはできる。
「酷い顔だな」
無量が半笑いで言った。
声を出そうとすると喉が焼けるようだった。私はひとしきり咳き込んでから言った。
「なんですか、これは」
「まあ、これでも飲んで落ち着きなよ」
そう言うと無量は缶コーヒーを投げてよこした。
私はそれを痺れた手で奇跡的にキャッチした。
もう一缶飛んできて私の肩に直撃した。
「多いよ!」
「おや、アイスコーヒーはダブルじゃなかったっけ?」
「アイスコーヒーにダブルとか無いから」
「失礼、英語なのがわかりにくかったか。ドッピオだね」
「ドッピオは二缶っていう意味じゃないよ」
喋りすぎてめちゃめちゃにむせ、咳き込んで涙が出てきて、とりあえず缶コーヒーを開けて一口飲んだ。
麦茶だった。
「どこで売ってんだよ缶入りの麦茶!」
「最近の大学生協は品揃えが良いな?」
「聞いたことないわ」
もう一缶の方はどうせ麺つゆとかだろうから捨てた。
「もう分かっていると思うけれど、申し訳ないが君を餌にさせてもらった」
私は黙って麦茶を飲む。血と胃液の味がする。
「君の日記を含めて、いろんな情報操作でもってここに『蛇男』という即席の化け物を作り出し、君がそれに捕まってもらう。危害を加えられてもらう。恐れてもらう。それによって呼び出したわけだ」
私は黙って立ち上がる。よろよろと。文学部の方に紫色の灯りがちらついている。
「……おや、言って大丈夫かな?」
「何が」
「この先を言って大丈夫か、って聞いてるんだよ、占い師様」
無量が愉快そうに笑った。紫色の灯りは揺れながら近づいてくる。
「何が言いたいのかわかりません」
無量が肩をすくめた。いちいち仕草が大きい。
「蛇男は明らかに有害だ。学生が捕まって、今まさに危害を加えられている。人間に害をなす妖異を現し世から排除する公安としては、見逃してはおけまい。だからやってくる。蛇を消しにやってくる」
私は黙って空き缶を放り捨てた。
「狩人が、ね」
紫色の灯りは、いまやリング状に見える。ゆっくりと、人の高さくらいの空中を滑り、こちらへ近づいてくる。
「そこで待機していた私と劫で、狩人を捕らえる。狩るものと狩られるものが逆転する」
「……」
「狩人が、藤木圭吾と交換するための人質になる」
「……」
「いや、人じゃあないんだけどね」
紫色の灯りはいよいよ歪んだ眼鏡ごしでも判別できるようになる。二メートル程の流線型のボディは銀色に鈍く輝き、それを紫色のリングが拘束している。連れ添っている少年の瞳が紫色に輝き、その拘束の主であることを告げていた。
「回収、したよ」
「よくやった」
そう言って無量は、回収されてきた『それ』を、その銀色のボディを小突いて言った。回収班の役割というのは、それだったのか。
「実験用妖異排除自動機械、通称『狩人』」
微かに硝煙のにおいがする。
「バラしちゃって悪いね。狩人っていうのは、これのことなんだ」
「……バラすって、何のことですか」
「おやおや、しらばっくれるつもり? 不誠実だなぁ。信頼できない語り手だなぁ」
あなただって信頼は出来ない。
「そうだね、私だって信頼は出来ない。けれど、これは事実だ」
そう言って銀色を叩く。
「単純にものすごく高価だし、とてもではないが公表できない技術がたくさん詰まっている。奪われても壊されても、闇の市場に流されてもすごく困る。一台で藤木圭吾が十人くらいは取り返せるだろう。それくらい価値がある」
「よく捕まえられましたね」
「まあね。モノは良くてもまだ運用が熟れてない。実証実験も始まってまだ半年だ。結構スキがある。いやいやそんなことより、私が言いたかったのは」
お前が言いたいのは。
「君が散々張っていた、狩ブラフが本当に狩ブラフだってことだよ」
……狩ブラフ。
狩人をにおわせることで、狼を迷わせる作戦。
「草苅はるかは狩人ではない。草苅なんて、狩なんて音を入れて、それに思わせぶりに狩人の話を何度も出して、君は彼女が狩人だって方向に、話を持って行きたかったようだけれど。そこに逃げ込みたかったようだけれど。別にそういうレギュレーションがあるわけじゃない。誰もそんなこと言ってない。狩人はこいつ。草苅はるかは役職持ちじゃない。異常ではあるかもしれないけれど」
異常。
私が知りたくなかったこと。彼女がもう、普通の人間ではないこと。
「だって異常だろう? 君が同棲してる彼女、ダブルじゃないか」
ダブル。
「失礼、英語なのがわかりにくかったか。ドッペルって言ったほうが良いのかな」
そう。私は。
私は、親友のドッペルゲンガーと同棲している。
病院で寝込んでいる彼女のドッペルゲンガーを、自宅に居候させている。
「ドッペルゲンガー百合……」
私は眼鏡を持ち上げて、精一杯作った余裕の表情で、回収班の少年に目配せして言った。
「タイトル回収、ってことか」
タイトル回収ではなかった。
第三部『三卜八恵は知りたくなかった』 完