14(占)
私は携帯電話を取り出して、塚田農場新橋レンガ通り店に電話をかける。
「もしもし、予約をお願いしたいのですが」
「時間通りだ。偉いぞ」
あの女の声がした。
「それで?」
「せっかちだな。本物の幽霊を見たら、さすがの君でも焦るのかね」
「あれが本物の幽霊、なんですかね」
影は動かない。影との距離は五十メートルくらい。ちょうど人くらいの背丈だから、それが人影に見えるというだけで、それっぽい大きさの丸太を立てておいたって同じように見えるだろう。それでも私たちは、人らしいものには人を見出さずにはいられない。
「期待通り、君が研究対象にしてくれた『蛇塚に祟られて死んだ学生』だよ。あれは」
「私に日記を書かせて、過去を改変したんですか」
「勘がいいね。占い師か?」
「確占ですからねぇ」
「それじゃあ占い師さん、ゆっくり蛇男の方に向かって歩いてくれ」
「は?」
私は反射的に周りを見渡した。どこからか安全な場所から、私を見ているのか?
「君は幽霊とか、怖がらない質だろう? っていうか、怖いものなんてほとんど無いんだろう?」
「怖いのは自分の才能くらいですね」
「それは末恐ろしい」
私は人影に向かって、一歩踏み出した。
「大丈夫、君の命を危険に晒すようなことはしないし、それ相応の見返りも用意している」
ゆっくり、ゆっくりと人影に近づいていく。
「見返り?」
「いやいや、まさかタダで働いてくれるってわけじゃないだろう?」
五十メートルが四十メートルになり、三十メートルになる。
「そもそも働くって、私ここで何をするのか分かっていませんが」
「『自分がなにをさせられるか分かっている』ことは、君に期待される働きのうちに入っていないから、それで良いんだ」
人影は、はっきり人影で、少なくとも人型だった。フードを目深に被り、俯いて顔は見えない。大人の男の背丈がある。
「本当にここに来るだけで良かったと?」
私は何かが聞こえた気がして、携帯電話を耳から離す。かすかなシュウシュウいう音が、人影の方からしている。もうそれと私との間の距離は、数メートルしかない。
「あの、本格的に蛇男みたいなんで
言い終えられなかった。
人影がつと跳ね起きて、腕を伸ばして私を突き飛ばした。いや違う。もともと立っている人影だと思っていたものが跳ね起きるというのはおかしい。そもそも人影ではなかった、人型ではなかった。いや、本体の部分は人型なのだが、フードの下のそれは、今や大きく伸び上がって、五メートルはあろうかという大蛇が踊る。伸びたのは腕じゃない。大蛇は一本じゃない。大小様々な蛇が今まで圧縮されていたみたいに、闇夜に人影型に開いた穴を通ってこちらの世界に溢れてくるみたいに、一気に一息に飛び出してくる。腕が、いや大蛇の一本が、私を突き飛ばして視界が裏返った私は素早く身体を捻って立ち上がり、向かってくる大蛇の三角形の頭を持っていた携帯の角で殴りつけるけれどもそれは全然勢いを殺すことすら出来なくて手首をまるでまさに文字通りに赤子の手をひねるみたいに大蛇は大蛇だけでなく大小様々な蛇が蛇が蛇が腕に巻きついて携帯が地面に転がって私はさすがに自分の身体が再度地面に転がるまでのその数瞬は焦りを自覚する。だが私の身体は地面に叩きつけられることなく、冷ややかな蛇体にすくい上げられてそのまま空中に掴み上げられる。街灯が蛇の躰を照らし、濡れたように艶やかなその表面に影がザラザラと流れ落ちていく。
「そこまでされてもまだ焦りが足りていないんじゃない」
電話は地面に落としたはずなのに、間近に女の声がする。
締め付けがきつくなり、肺から空気が無理やり吐き出される。両腕はピッタリと身体に押し付けられ、手首が変な方向に曲がり痛み、空中に浮いた足から靴がこぼれ落ちる。気が遠くなって、私の視点が持ち上がる。私は、蛇に絡みつかれて空中に持ち上げられた、三卜八恵の身体を見下ろしている。青白い顔が苦痛と恐怖に歪んでいる。私が恐怖している? 本当に?
「もっと恐れて貰わないと」
どこからか女の声がする。かろうじて自由に動く首で見回しても、女の姿はない。ただ、人影が立っていた場所から大蛇が湧き出してくる。詰まった流し台から血が溢れるみたいに。ずるり、ずるりとと重い身体を引きずって。血糊のこびりついた死体を引きずり回すように。広場が血の海に染まり、私の身体を這い回る。
「恐れないと、畏怖して貰わないと、助けは来ないぞ」
不意に風を切るような音がして、脳が揺れた。私の顎のあたりを大蛇が強かに殴りつけ、しかし私は地面に倒れることも出来ず蛇に縛り付けられたままだった。二度、三度続けて殴られ、血の味が広がる。足がつかず、歯を食いしばることも出来ない。チカチカする視界が戻ってくると、それはよく視えた。
私は殴られた拍子に眼鏡が外れたのだと気づく。
それは黒かった。闇だった。怨嗟。ただただ純粋な憎しみ。生身の人間には生み出し得ない単純すぎる感情。恨み。怨み。憎しみ。人間のマイナスの感情は数多く見てきたけれど、視てきたけれど、ここまで単純で濃縮されたマイナスがあるのだとは私は知らなかった。思わなかった。
私は初めて、恐ろしいと感じた。
一体これは何なんだ。私は何をされているんだ。蛇男、いや蛇そのものに捉えられ、空中でぎりぎりと身体を締め付けられ、息を吸うのも絶え絶えで、女の声は助けてはくれない。
「私らは助けないさ。他にやることが」
蛇が、拳の大きさほどの頭の蛇が、私の頬に身体を擦り付ける。氷のように冷たい表面に撫でられると、凍えるように皮膚が痛む。顔をそむけようとする私の首に蛇が巻き付き、私の身体からまた自由が奪われてしまう。再び表面にやってきた蛇の赤い瞳には、ただただ悪意だけが視える。私は想像する。想像してしまう。想像させられてしまう。その悪意が、憎悪が、怨嗟が、私の喉元に噛み付くところを。その蛇が私の顔に近づき、私の口元にやってきて、私は顔を動かすことも出来ず、蛇の舌が私の唇をチラチラと舐める。
蛇は、私が理解するのを待っている。蛇は、私が視るのを待っている。私が想像するのを待っている。おぞましい想像を待っている。赤い瞳を私は見て、視て、理解する。こいつは、私に噛み付こうとしているわけではない。少なくとも外側からは。うそ、とか、やだ、とか、月並みなセリフを吐きそうになる私に私は吐きそうになって、けれどどちらも叶わない。無理やりに顎がねじ開けられ、口の中にずるりと氷の塊のようにその頭が入ってこようとするのを知ってここで本当に私は恐怖する違う食いつかれるのではなくこいつは私の中に私の口から入ろうと這入ろうとしている顎どころか身体全体が頭蓋までもが蛇に締め付けられ自由の一切が効かず蛇の赤い瞳の悪意が口蓋の内側を蛇の頭が撫で咳き込むための息もなく喉が内側から締められる吐き気に痙攣することすら許されない口の中と鼻の奥が凍るように熱くえづく私に蛇の胴が息ができな気を失いかけ
「いらっしゃったようだ」
辺りの灯りが消え、世界が闇に沈む。
銃声を聞きながら、私の意識は遠のいていった。