10(狼)
「燈花はよく運転するの……」
「いえ、時々週末に買い物に行く時に、この車を運転させてもらっているだけですね」
運転席に燈花が座り、僕は助手席にいた。イエローのアクアが橋を渡って、多摩川を越える。アクアというのはいかにも燈花のお父さんが選びだそうだけれど、イエローは選ばないだろう。二色さんか、もしかしたら燈花の意見も反映されているのかもしれない。比較的生活感とでも言うものが少ない車内で、流れているのもラジオだけれど、それでも僕はこの車が、石狩鍋を食べさせてもらったあの居間よりも増して、家族のための空間という風に感じていまい、居心地のよさと居心地の悪さを同時に味わっていた。助手席のトレイに伏見稲荷大社の交通安全お守りが置かれていてじわじわきた。
昨日、燈花のお父さんの運転でこの車に乗ったときより、もちろん燈花と二人の方が、変な緊張はしない。しかしそうは言っても、僕は不安定な気持ちだった。
「今回は私が運転しますから、大丈夫ですよ」
僕は二年前に免許だけは取ったもののその後全くハンドルを握っていない。燈花に任せておいたほうが安心ではある。けれどこれだけのロングドライブを、燈花に任せっきりというのも、なんだか申し訳なくて落ち着かないのだが。
「そうは言っても、実質一日三時間くらいしか移動しないわけですから」
一日三時間、朝だけの移動。
狩人たちが動かない、朝のうちだけを利用して、二人で北へ逃避行。十日間。
「それに、そもそも元を正せば、私のせいでこんなことになっているのです」
そんなことはない、と言いたかったが、実際のところ、元はと言えば燈花が僕に化けたのがきっかけではあった。だから僕は、かわりに言った。
「大丈夫、嫌じゃないから」
*
目的地は、六峰山という山。なんでも北海道は石狩にあるらしい。え、石狩伏線だったの? その山頂にある神社が、僕の狼を預かってくれるのだという。神職を見つけてくれたのは燈花のお父さんだ。
「昔の知り合いから情報がもらえてね。もう少し近いところでも適任はいそうに思うけれど、あまりおおっぴらに探すのもまずい。移動さえクリアできれば、問題ないはずだ」
僕がお尋ね者だというのなら、燈眞さんは仕事上、僕を通報する義務すらあるはずだ。家に匿ってくれ、問題の解決策まで探してきてくれて、本当に頭が上がらない。
お尋ねものは僕ではなく、厳密に言えば僕が背負っている狼だ。だからこの狼を捨ててしまえば、とりあえず安全になる。
とはいえこの狼の札は、誰でも剥がせると言うものではない。だから、公権力と無縁で、ある程度信頼できて、狼を扱えそうな人が必要だった。職場の備品さえ使えれば、自分が無理やり剥がすこともできるが、と燈眞さんは言ったけれど、そこまでの迷惑はかけられませんと僕は固辞した。
「まあ、そうだね。その藤木先生という人が用意した御札なんだろう? その人が逮捕されたというのなら、いま職を追われるのは良い判断じゃないだろう。職場から情報を探ってみるよ」
「いや、そういうことでなく……。僕なんかのためにこんなに……」
車まで貸してくれると言う燈眞さんに、もう僕は何も言えなかった。
「気にしないで。別に仕事に迷惑もかからない。困っている人を助けるのがこの仕事だから」
そうして燈眞さんは、僕にだけ聞こえるように、こっそりと付け加えた。
「それに、君は燈花が初めて家に連れてきた友達だからね」
燈眞さんはそう言って、父親の顔で微笑んだ。
狩人をはじめとする公安の活動時間は昼から未明までと言われている。朝というのは一般に、明るくて、明晰で、明瞭で、怪しい出来事は起こりにくい。変なモノが現れるのは、第一に逢魔が時、そうでなければ丑三つ時と相場が決まっている。朝はそれらから最も離れた時間帯だ。故に、朝が彼らの交代時間になっているのだとか。だから僕たちは、朝にだけ移動する。
宇都宮の適当なビジネスホテルについたのは完全に昼で、普通はチェックイン3時からのところを、頼んで入れてもらった。まあ、普通のビジネスホテルと言った感じの、部屋がベッドで埋まっている空間だった。
「え?」
燈花が首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いや、ベッド一つじゃん」
「は?」
「え?」
「……いや、香織はひょっとして、私がタダでドライバーをやるためについてきたと思ってるんですか?」
「下心がひどすぎる」
燈花がかばんをゴソゴソと探り、御札のような物を取り出して、部屋の入り口のドアに貼り付けた。読めない文字で何事か書いてある。
「なんて書いてあるの」
「ドゥーノットディスターブ」
「普通の札じゃん」
「こっちの小さい字は、『エコカード(シーツ交換不要)』と書いてあります」
「それ外に向けて貼るやつじゃん」
絶対書いてないだろう、それ。
「父に借りました。狩人除けに、おまじない程度の効果はあるそうです」
「なるほど」
「昼と夜の間、これを貼って引きこもっていれば、基本的には安全だろうということです。午前中しか移動しないこと、ホテルについたらこれを貼り付けること、移動の前後に毎日連絡を入れること。これを守る条件で、私が香織を送っていくのを許してもらいました」
「そっか」
すとん、と沈黙が落ちた。
どこかの配管か空調かなにかの低い音が微かに流れる。それ以外、不気味なくらい音がしない。燈花は無音でこちらに向き直った。
「さて」
一歩近づいた。
「さて?」
「どうやって時間を潰しましょうか?」
確かに、今更ながらそれは問題な気がした。目的地につくまで十日間もかかる。外に出られないのなら楽しく観光というわけにもいかない。時計をもう一度見たが、さっきから三分くらいしか進んでいない。まだ昼だ。
「昼は長いですよ……」
燈花がにじり寄ってきて、僕はそれ以上後ろに下がれなくなった。後ろにベッドがあった。
「ちなみにドアに貼った札ですが、音響遮蔽の効果もあるそうです」
「は?」
「声を気にしなくても大丈夫ということです」
「おい」
「香織、狼狽していますね?」
「え……」
「狼だけに」
これ言いたかったんですよね、みたいな顔で言うのをやめろ。