9(占)
ホットサンドメーカーでホットサンドを作る。まずホットサンドメーカーの片面を利用して目玉焼きを半熟めに作り、マーガリンを塗ったパンとハムとチーズの上にそれを載せて、マヨネーズを適当にかけ、上からパンをかぶせて、ホットサンドメーカーの反対側を取り付けて挟む。両面を弱火でじっくり焼いて、簡単出来上がりである。
ホットサンドはガッチリ二枚のパンを固着させることで、マーガリンとかジャムとか塗った面が露出しないので、万が一落としてもマーフィーの法則に従って落ちずに空中で回転し続ける。この回転力は再生可能エネルギーの一つとして将来を期待されている。
「期待されてないよ」
背後からはるかの声がした。
「おはよ。もうできるよ」
「ありがと」
二人とも一限は無いので、朝はゆっくりだ。
そのうちにいいにおいがしてきて、ホットサンドが出来上がる。六枚切り二枚で作ったホットサンドは結構ボリュームがあるので、二人で半分にするとちょうどいいのだ。
「ところではるか。一枚切り食パンっていうのは、あるのかな」
「耳だけ切ったら一枚切りなんじゃない」
「ゼロ枚切りは?」
「発散する」
「n枚切りっていう単位は、一斤を何分割するか、だからある意味で尺貫法の補助単位なわけだけど、SI単位原理主義者はn枚切りって言葉も使わないのかなぁ」
「使うと思うけど、そもそもSI単位原理主義者って何」
「食パンの食って自明だから省略できると思う?」
「できない……」
優雅な朝だった。
はるかは眠そうな目と跳ねた髪でコーヒーを淹れてくれて、二人で飲んだ。
「あ、そうだはるか。うちの大学に蛇塚ってあるの知ってる?」
自主ゼミのネタにどうかな、と思ったのだ。この間の、燈花ちゃんが持ってきた都市伝説みたいな話題でもゼミは盛り上がるということがわかったから、蛇塚もいけるんじゃない、と思っただけで、何の気なしに発した言葉だった。
しかし、その質問は間違いだった。
間違いなく、間違いだった。間違えようがなく間違っていて、場違いに間違っていて、紛れもなく間違っていて、見違えて間違っていた。ほんの一瞬前まで眠そうだったはずのはるかの表情が、過冷却した水みたいにぴしりと凍りつき、怪訝に歪む。
「蛇塚……?」
やってしまった。
恐ろしく冷たい声だった。冷たいどころか、皮膚が切り裂かれてしまいそうに痛い。氷の塊に拳を突っ込んだみたいだ。
「う、うん。工学部一号館のとこにあるらしいんだけど」
どこで何を間違えたのか必死に考える。何の気なしに蛇塚の話を出したが、これは昨日、あのライダースーツの変な女に教えてもらった都市伝説チックな話で、別に不適切な話題ではないはずだ。考えろ。それとも女か。あれとお茶したのが咎められている? いや、違う。多分そういうことではない。
「工学部一号館の前の広場にある蛇塚……」
はるかが据わった目で言った。考えろ。何を間違えた。
「ねえ、八恵。それって、占いと関係のある話?」
頭が熱い。首筋に汗をかいているのを感じる。
「いや、占いは関係ないじゃん……?」
占い師の真贋を気にしすぎると、持っている能力が透けるよ。だからその話はやめてくれ。
「じゃあ……先月の自主ゼミで、八恵が持ってきた資料は何?」
先月の自主ゼミ。
四月十六日、自主ゼミの第二回。
私の持っていったテーマは。
私の持っていた資料は。
蛇塚……?
記憶の濁流が氾濫し、私ははるかをまともに見つめ返してしまう。眼鏡のレンズ越しのややぼやけた彼女の顔を、食い入るように見つめてしまう。
だってそれはおかしいのだ。
たった数十秒前に私はこう思ったはずではないか。
この間の、燈花ちゃんが持ってきた都市伝説みたいな話題でもゼミは盛り上がるということがわかったから、蛇塚もいけるんじゃない。
だが私の記憶はそれと矛盾している。四月十六日の自主ゼミに、私は確かにこの蛇塚の話を持っていっている。その記憶がある。蛇塚の由縁について議論し、実物を皆で見物に行って、香織っちがその形状の謎を推理した。
同時に燈花ちゃんが都市伝説を持ってきた時にこれ都市伝説じゃんみたいな話をしたことも覚えている。この二つの記憶は矛盾している。
もし私の回の時にすでに都市伝説をやっていたのなら、燈花ちゃんの回の時に、それが都市伝説であることに反応したりしないはずだ。
どういうことだ。私は自分がゼミに提供したそのネタの事を何故か忘れており、あの無量という女に言われてそれを初めて知ったように感じたというのか。
「……ああ、そっかぁ、勘違いしてた。蛇塚の話、してたねぇ。四月に」
はるかは不審な目で私を眺め回していた。身体が熱く、汗が噴き出す。言い訳が苦しすぎる。絶対にありえないレベルの記憶違い。……いや、これは記憶違いなのか?
「最近、あの蛇男の話、何度か聞いたわ」
やや間があって、はるかが言った。その目はもう据わってはいない。
「……蛇男?」
「蛇塚の祟りで死んで、幽霊になって出てるっていうやつ。最近追いかけられたって人が、結構いるのよ」
「へぇ……あの話って結構昔に流行ったんだと思ってたけど」
話が逸れそうで、私は安堵する。
「それが連休あたりから再燃してるみたい。社会基盤の知り合いが言ってたわ」
「弓の知り合い?」
はるかは弓道サークルに入っている。
「そう。社会技術学で一緒だから」
私は人のこと言えたものじゃないけど、はるかは未だに変な授業を取っている。まあ、そもそも私とはるかが知り合ったのだって、文系の一年のくせに基礎実験を取っていた者同士、という仲なのだ。そもそも普通は文系の必修と被ってしまうはず。バグ技みたいな方法で履修していた。
はるかがサークルの知り合いと話をするくらいの人間関係を保っていることには安心するけれど、ここでわざわざ授業の名前が出てくるのも溜息ではある。はるかがここで暮らし始めてから、彼女は学校以外ほとんど家を出ていない。サークルの集まりとか、きっとあると思うのだが。
「その人が追いかけられたって?」
「あくまで噂。追いかけられたっていう話は、あくまで知り合いが、知り合いの知り合いが、ってやつ。でもその子も、それらしいのを見かけたとは言ってた」
「それらしいの」
「フードをかぶってて顔がよく見えないんだけど、通り過ぎる時に蛇の鱗みたいな肌が見えたんだって」
まあ、それだけじゃ普通に、何か皮膚炎とか、皮膚に健康上の問題を抱えた人がいたというだけかもしれず、それ以前に見間違いかもしれないくらいで、なんでもない話だ。
「そう。八恵の言う通り。なんでもない話だと私も思う。ただ、この噂がそれなりに盛り上がっているらしいっていうのが、私はちょっと気になるのよね」
「盛り上がってるんだ?」
「追いかけられたっていう人が正門の警備室に駆け込んだらしいの。幽霊だったかはともかく、不審者騒ぎっていう扱いで、警備員が増員されたりしてるのよ」
「へぇ……」
それは全然知らなかった。大学の警備員と言えば、愛想のいいおじさんの印象しかない。1限どころか2限も捨てて昼になって登校してくる学生に元気よく挨拶し、3限サボって街に繰り出していく学生にも元気よく挨拶し、ともかくすべてを赦してくれる菩薩である。不審者と戦うという姿は浮かばなかった。
「タイミングが良すぎると思わない?」
「何の?」
「わたしたちの自主ゼミで蛇塚の話を扱ってから、それに関連する怪談が、巷で噂になっている」
「ふうむ……」
話の行き着く先が見えてしまう。マグカップを持ち上げて、しかしそこにもうコーヒーは入っていない。今朝のコーヒーは、普通に一人一杯だったからだ。
「香織っちや燈花ちゃんが、友達に話したのかなぁ」
「そうかもしれないわね。今度聞いてみましょう」
私は空になったマグカップを弄ぶ。それは何も答えてはくれない。
「ちなみに私は、誰かにあの自主ゼミの内容を話したりはしていないわ。八恵は?」
「……私も」
それは本当で、何しろ私は昨日まで、その話を知らなかったのだ。いや、知らなかったはずなのだ。
「ねえ、それなら教えてほしいんだけれど、八恵はあの蛇塚の話、どこで知ったの?」
それは合理的な推理だ。
ゼミのメンバー四人から噂が拡散していって、工学部生の間で話題になり、実際に幽霊の目撃者が出ている、というのはあまり現実的とはいえない。だってそれは、さすがに速すぎる。そんなに爆発的に噂が拡散したりはしない。口裂け女級のスピードじゃないか。それよりも、工学部生たちと私に、共通の話の出処があった、と考えたほうが妥当だ。
では、その話の出処とはどこか。
私にとってそれは、昨日、キャンパス内で声をかけられた怪しい女である。
けれどそれは時空が歪んでいる。私がゼミに資料を持っていったのは四月だ。どうして昨日知った話が、ゼミの時点で分かっていたというのか。それじゃあまるで……。
「ねえ八恵。私に何を隠しているの?」
木霊するその問を、私はまた反芻している。
私はベッドに眠る親友を見下ろして、その頬を撫でた。
「私は、あなた達に何もかもを隠している」