7
出汁の香り漂う店内。
稲荷木燈花は油揚げを心底幸せそうに頬張った。
「普通、一杯いかがって、お茶とかじゃないの。もしくはお酒」
「でもこの辺りで一杯といえば、やっぱりおうどんじゃないですか?」
おうどん。
丁寧か。
「そんなことはない」
おをつけたらもうUじゃないし。
「そんなこと言って、神谷内さんそれ、釜めんたいバターじゃないですか。一見さんは釜めんたいバターとか頼みませんから。結構来てるんでしょう」
「だから、僕のことは香織でいいよ?」
お近づきになるためにさん付けをやめようとさっき言った。
「香織、さん」
「香織」
「釜めんたいバターさん」
「釜めんたいバター」
釜あげうどんの上にのった明太子、海苔、紫蘇、半分溶けたバターをかき混ぜて、粉チーズをかけて食べる。このメニューは、確かに初見にはハードルがやや高い。素人は温冷二種うどんでも食ってろ。
「まあ、好きなんだけどね……」
「私も結構好きで時々頼みますよ、釜めバ」
「釜めバ?」
「釜めバ」
「君こそ絶対常連だろう」
「たられば」
「わかる」
コシの強い細めのうどんに、明太子とバターがよく絡んで、口の奥まで大きく広がる。黒胡椒が良いアクセントだ。油が舌を撫で、うどんが喉で跳ねる。邪道と言われようが、こういう現代的なメニューが美味しいのだから仕方がない。この店、内装は結構本格的でうどん屋とは思えないおしゃれさだけれど、真骨頂はこういう邪道メニューだと思う。釜カレーとかも好き。
「で、そういう燈花は、きつねうどんなんだね」
きつねうどんはうどん界の定番ではあるが、この店では頼んでいる人があまり多くない印象だった。
「好きなのです」
「みてればわかるよ」
清楚で透明感のある美少女だと思った燈花のほっぺたは完全に剥落しかけていた。大学の講堂なんかで見かけた時の印象とはずいぶん違う。
それにしても、近くで見るとやっぱり可愛いなぁと思う。前髪の間から、二重で少し眠そうな、けれども楽しげな瞳が覗く。楽しげなのは単に好物を食べているからか。小さな肩に、華奢な鎖骨に、透き通るような白い肌。柔らかな髪が、小さなうどん一口ごとにふわふわと揺れる。僕は自分の短く切った硬い髪を無意味に撫でて、それからお茶を一口飲んだ。
……人間の身体って違うよなぁ。僕は思う。僕は自分の髪がふわふわしている状態というのが想像つかない。
「ところで香織さ……香織は、どうしてあのゼミに?」
燈花がもぐもぐしながら言った。
「藤木先生のところで学びたいからかな」
「先生の研究に興味があると。私もですよ。ではどうして先生の研究に?」
目があった。僕は髪の硬さのこととかを考えていて、ちょっとぼんやりしていたのだと思う。
「まあ、一言で言うと……自分を知るため、かな……」
言ってしまって恥ずかしくなった。目を逸らす直前、燈花の目がキラリと光ったような気がした。彼女は早く喋りたそうに、口に入れたうどんをもきゅもきゅと噛む。
「いや、自分のためっていうか。先生の研究は、ほら、人間とは何か、みたいなところに通じてるから」
その隙間を埋めたくて、僕は言い訳みたいに言った。燈花がうどんを飲みこんで、言う。
「私、香織さ……釜めんた……香織と仲良くなれそうな気がします」
「もう香織さんでいい」
ともかく、それが僕と燈花のはじめてのUだった。
以来、僕と燈花は時々、人目を避けて二人でUをした。別に人目を避けるべきことではなかった。最近じゃ、女子大生が二人でおうどん食べるのは別に珍しくもない。珍しいか。
まあ、僕たちはその程度の距離感の関係だった。僕はそれがよかった。この距離のままどこへもいかず、どこへも辿り着かない。
僕はそれなりに燈花のことを知っている。彼女の昔のことまで知っている。小さいころ、良いことがあった時にはお祝いのために、悪いことがあった時には励ましのために、彼女のお母さんが彼女の大好きなきつねうどんを作ってくれたエピソードだって知っている。そして燈花も僕のことをそれなりに知っている。僕のそういう、当り障りのない昔話を、彼女も知っている。
それなりだ。
そこまでだ。
春になって自主ゼミが始まってからは、僕たちは毎週のようにUだった。爛れた生活だ。