4(狼)
「香織さん、君は今、公安による排除対象に指定されている」
燈花のお父さん、稲荷木燈眞さんは、静かにそう言った。
「公安の妖異局については知っているよね」
「……はい」
公安委員会、妖異局。その名は藤木先生から聞かされている。
警察組織。実力行使担当。公の安全を守るもの。人間社会と共生は不可能だと判断された異常な存在、害悪とみなされた妖異を、力でもって排除し、無力化する組織。
藤木先生の本来の所属である文化庁宗務課とは、正反対でありながらにして同じコインの裏表、そういう組織だという。藤木先生がかつて僕の火鼠をそうしたように、文化庁というのは、ありとあらゆる手を尽くして、妖怪を保全する。強力な妖怪の力を弱め、角を矯め、牙を丸め、怒りを逸してしまう。対する公安は、そういう手段が最早使えなくなった存在、道を外れ、人に害をなす存在を、消し去ってしまう組織だ。
「君は先月、肩を撃ち抜かれている。そしてつい先程、君に化けた二色が、それはもう文字通り蜂の巣にされている。どちらも最近この街に投入されている、公安の『狩人』の仕事だ」
「僕に化けた、っていうのは……」
稲荷木母は、稲荷木二色さんは、ニヤついていた。
「きっと狩人は、完全にお前を殺したと思い込んでいることじゃろうな」
僕が、殺された?
「いや……そうとは言えない。結界を張って目くらましをして逃げてきたから、狩人は香織さんの死体を確認できていない。第三者が化けたフェイクだったとは気づかれていないかもしれないけれど、無害化を完了させたとは認識していない」
香織さんの死体。
食卓を囲みながら自分の死体の話をされているというのは変な話だった。
現実感がない。
なるほど二色さんならば、伝説の半妖狐『アシキ』ならば、本当に僕と完全に見分けがつかないような化け方もできるのだろうと思うけれど、それがすでに殺されていると言うのは話が二段階くらい飛んでいる。ついていけない。
……けれど、わかったことが一つあった。
燈花の機嫌がやたら悪い理由だ。明らかに母親に向けて拗ねたような態度なのは、二色さんが僕に化けたことを怒っているのだろう。
確かに、僕がその立場だったらと思うと。
つまり、燈花だと思っていた人の中身が実は母親で、燈花に向ける態度とか言動とか、そういうのを親に向けてしまったらと思うと。
ぞっとしない。
怖すぎる。
最低だ。
僕のほうが赤面してしまう思いだった。燈花、変なこと言ってないだろうか。ちらりと視線をやると、燈花はもう鮭がなくなった取り皿に、山椒を振り続けていた。重症だ。
二色さんはなんだってそんな恐ろしいことができるのだろう。やはり妖怪としての格が違うのか。
「実際この通り。現時点でも、神谷内香織は有害度3で排除対象に広域指定されている」
そう言って燈眞さんはスマートフォンを取り出して、僕に示した。
画面には確かに、僕の名前と、排除指定の文字がある。
「え、公安の指定って、こんな風にインターネットで見られるんですか」
そういう公の組織ではないと思っていたのだけれど。
「いやいや、これはうちの貸与端末だよ。ああ、まずそこから説明していないね。僕は東京都の怪異福祉局で働いているんだ」
「ああ、そうなんですか」
そうなんですか、で済む話ではないかも知れず、もっと驚くべきところなのかもしれないけれど、僕はその程度のリアクションしかとれなかった。何しろ、自分が死んでいる話のほうが重大だし、自分が公安に目をつけられている話のほうが重要だ。
文化庁が妖怪の保護を、公安が妖異の排除を司る機関であるならば、怪異福祉局はそれらの中間に位置する組織だ。バランスを保ちながら怪異が人類と共存できるよう、日常的な管理を担っているとかなんとか。いや、燈眞さん、奥さんも娘も普通に変身してるけど、管理できてるんですかね……。
「これの権限では、詳しい情報は見られない。君の情報は殺人未遂ということだけがここに書かれている」
殺人未遂。
それは現実離れした単語だった。殺人未遂? 僕が?
「何を指しているかは、いちおう推定できる。先月の満月の時、君が狼の状態で燈花を襲おうとした事だろう」
それを改めて、第三者に、いや被害者たる燈花の父親である燈眞さんに、こうして淡々と言われてしまうのは、なんとも居心地が悪かった。
「けれどこれは不自然だ。まず第一に、実際殺人は起こっていない。君はその時、狩人の射撃によって倒れ、燈花を傷つけてはいない。そして狼の状態を適切にコントロールしている限りは、君には他者に危害を加えるリスクはない。そこに有害度3は、やりすぎだ。公安の排除指定というのは、現在のリスクによって決められるんだ。これが普通の、人間向けの警察と違うところだけれど、過去に犯した罪を償わせるシステムじゃない。知っているよね」
燈眞さんが滔々と語り続ける。僕はただ、頷くしかできない。燈花がキッチンの方へ消えたと思ったら、麺をもって戻ってきた。稲荷木家の石狩鍋の〆はラーメンか。二色さんが「いいぞ」と言ったが燈花は無視した。
「第二に、さっき君に化けた二色は、素の状態の君に化けている。人狼状態じゃなかった。それなのに狩人にあれだけ発砲されている。下手をすれば、無害化どころか人間としての神谷内香織すら殺しかねない勢いで撃たれている。明らかにバランスが取れていない。でっち上げと言うか、微罪逮捕というか、不自然だ」
人間としての僕を殺しかねない。現実感がない。怖い言葉のはずだけれども。
燈花が鍋の中からラーメンを一本取って口に運んだ。咀嚼して、ん、と首をかしげる。まだ硬いのか、と思ったらもうひと束とって食べる。ん、と首をかしげる。こいつ、まだ硬い感を出して味見で稼ぐつもりか。それを見抜いた二色さんがものすごい量を自分の器に移している。戦いは静かに始まっていた。
「それと、これは証拠を見せられないけれどもう一つ。この有害認定、今確認できる記録上は、先月からずっと有効だった事になっている。けれど、僕が見間違えでもしていないかぎり、こんなものはずっと出てはいなかった。僕の端末に表示されたのは今日の夕方が初めてだ。それを見て、君を保護しに行ったんだ。これは改竄だ……。だって香織さん、君はこの一ヶ月間、全く家を出てなかったわけじゃないだろう?」
「……はい、一応怖かったので、外出は減らしてはいましたが、全く出なかったわけではないです。昨日の日中はずっと外出していましたけれど」
「本当に有害度3がついていたら、それで無事でいられたはずはない。というか家にいたところで、突入されるかもしれないくらいだ」
燈眞さんは断言した。ああ、この家はとりあえず安全だから安心してね、と燈眞さんは慌てて付け加えた。話の大きさについていけない僕は、けれどそんなスケールの大きな心配はできず、どちらかというと僕と燈眞さんの分のラーメンがなくなりつつあることが気がかりだった。
「だから何かがおかしい。今日の夕方だ。なにか、潮目が変わるようなことがあったんだと僕は思う。けれどそれが分からない」
そのとき。
ブーン、と、軽い音がした。
スマホのバイブ音だ。燈花がポケットからスマホを取り出す。
「潮目……」
燈花がそうつぶやいた。
「え?」
燈花は不思議そうに首を傾げた。
「みとはちさんからメールです」
それの何が、潮目?
「……藤木先生が、逮捕されたそうです」
僕達が唖然としている間に、ラーメンは消えていた。