埋火
犀川大橋での火事で怪我人は出ていなかった。
日宮神社の火事でも怪我人は出ていなかった。
それだけ確認すると僕は部屋に閉じこもって布団にくるまって目をつむっていた。他のニュースなんて見たくない。もし火事が起きていたらどうするんだ。考えたくない。消防車のサイレンの音がする。音がするような気がする。顔が熱い。炎が燃えて、熱を発しているみたいに熱い。この家も燃えている。燃えているような気がする。僕の身体を炎が駆け巡っているような気がする。僕の身体を炎が舐める。四肢が燃え、燃え残った僕の神経がパラパラと崩れて灰になる。炎が橋を焼いている。炎が街を焼いている。火鼠が部屋を駆け回る。頭が燃えて焼ききれる。悲鳴。炎と熱。灰。人間みんな灰になる。燃え尽きる本。父の蔵書。父の灰。母の悲鳴。次はきっと殺す。燃やし殺してしまう。自分がどこまで何をしでかすのか分からない。自分が何を考えているのか分からない。驚愕する宮本の顔。あんなやつ死ねばいい。死ね。本気でそう思っていた。思ってきてしまった。だから燃やしてしまうかも知れない。消防車のサイレン。人間みんな灰になる。炎が血管を焼き尽くす。それが燃えると得をする人間がいる。皮膚が髪が焦げる嫌な臭い。悲鳴とサイレンと悲鳴とサイレンと悲鳴とサイレンと悲鳴と
ピンポン、と間の抜けた音が鳴る。
消防車のサイレンではない。
ピンポン、ピンポン、と来客を告げるチャイムが鳴る。
家には僕一人しかいない。
ピンポンピンポンピンポン、とチャイムが鳴らされる。
誰だ。
公安かも知れないという不安がよぎる。全身がこわばる。
「神谷内くーん」
……藤木の声だ。
僕はのろのろと立ち上がり、玄関の戸を開ける。
「ああ、ごめん。寝てた? ……いや、眠れはしないか」
藤木は例によってくたびれたジャケットを着て、陰鬱な顔をして現れた。
僕はとりあえず麦茶をコップに入れて差し出した。
「ありがとう」
藤木は一気に飲み干した。
「冷蔵庫から麦茶が出てくる。実家のような安心感だな」
お前の実家ではない。
事案おじさんとか言っていたのに、その男を自分一人しかいない家に上げている状況に気づいて、僕は随分遠くに来てしまったような気がした。変な感じがする。
「今日の火事は一件だけだ」
「……!」
急に言われて、心臓が止まりそうになった。
「君が心配していたとおり、お父さんの働いていた会社のビルだ」
僕は顔をあげられなかった。頭にかっと血がのぼり、口をパクパクするしかできない。
「大丈夫、誰も死んでない。怪我もしていない。事前に手を打ったから」
藤木はマジシャンが手品を披露する前にやるみたいに、手のひらをこちらに向けて揺らした。
誰も死んでない。
怪我もしていない。
それで僕は少しだけ、本当に少しだけだけれど安堵する。
「手を打った……?」
「怪文書を入れた。怪火には怪文書。稲荷神の祟りである、大阪へ帰れ、って書いてね」
「なんですかそれ……」
お稲荷さんどっから出てきたんだよ。
「まあ、祟りと言えばお稲荷様ってだけだよ。あまりにもありふれているから、祟りを騙っても祟られないくらいで」
その態度は祟られそうだな、と僕は思った。
「それで、脅迫の類だって言って、警察にも連絡が行った。まあでも、警察もまともに取り合わないよね。そんなの。だから普通に仕事してたんだけど、突然オフィスの天井から火が出た。言ってもたいしたことない火だよ。すぐ消された。でも支店長席に燃えた天井が落ちてくるっていうビジュアルは、その視覚効果は、結構大きかっただろうね。それだけ。鼠はそれだけで良かった。だって、俺が鼠の代わりに、大阪へ帰れって、言ってあったから」
「火鼠とすれば、宮本を消すにはどうすれば良いかっていうのは相当な難問で、放っておけば実際、焼き殺すという手段を取ってしまう危険があった。けどそういう脅迫状が届いた後ならば、なんでも良い、ちょっと不審火を出すだけで事足りる。きっとあの会社、金沢支社は引き上げるよ。そうすりゃ宮本も大阪に戻ることになる」
「……そんな簡単に、いくもんですか」
「いくね」
藤木は当然のように言った。
「理由は後からついてくる。会社の中の誰かが最近稲荷神の祠を壊したとか、どこそこの土地はもともとは神社だったとか、くだらない理由を、誰かが絶対に探し出す。祟りってそういうものだからね。運が良すぎたら、妬まれて物が憑くのと同じ理屈さ。あそこまで明解に怪火が出たら、人間は理由探しをやめられないものだよ。もしこの不審火が加賀騒動の直後だったら、これも大槻伝蔵の祟りにされていただろうさ」
んな無茶な、と僕は思った。
「さらには、ちょっと調べた限りでは、あの金沢支社の経営状態はあんまりよくない。撤退理由が出来て良かったじゃないか。中小企業はフットワークも軽いさ」
「……」
「だから誰も死んでいない。怪我もしていない。けれど、宮本という邪魔者は消える。君の人生から退場する。君と火鼠はまた勝利してしまった」
火鼠がチュウと鳴く。勝ち誇って火花を燻らす。
実際にあの軽薄な男が、会社がなくなってもなおこの街に残ったり、母に会いに来たり、そういうことをするとは思えなかった。彼が人生をかけるとは思えなかった。
「けれどこれでは、君は毎日、ずっと、火に怯えながら生活しなくてはいけなくなってしまう。俺がやったみたいな操作を加えないと、人に危害を与えてしまう可能性もある。君と火鼠はラッキーすぎた。序盤で勝ちすぎた。掛け金をつり上げ過ぎた。安全に着地出来ない状態だ」
藤木はクラッチバッグをごそごそやって、錠剤の入った瓶と、御札のようなものを取り出した。
「だからこれがプランB。不便なのは月に一度だけ。これを君に貼り付ける。満月の夜には薬も飲んでもらう」
「……どういうことですか」
「神谷内君、君には狼になってもらおう」
そうして僕はなった。
狼に保護され、狼を保護する人間に。