乱火
車の中は、例の甘いにおいがした。
かなり強烈に、レモンとシロップと草を煮詰めたみたいな、甘くて煙たいにおいがこびりついていた。僕は頭がクラクラした。なんでこんな車乗っているんだろうと思った。あれ。なんでこんな車乗っているんだろう。
「どこへ行くんですか」
「まずは街を一周。君の気配をある程度散らしておかないといけないから」
「僕の気配を?」
「ああ」
「……どうしてですか」
「君が喫茶店の窓を破壊して、その先にある犀川大橋の車を爆発炎上させたからだ」
その瞬間、意識が高速で巻き戻った。自分がカッとなって、何かをしでかしたらしいことに気づいた。せき止められていた、マスクされていた情報が一気に意識に流れ込んで、洪水のように大混乱が起きた。
「ぼ、僕はさっき、何を」
甘くて煙たいにおいが喉に絡んで、吐き気がする。
藤木は運転席の窓を少し開け、ポケットから取り出した何かを外に捨てた。すぐに窓を閉める。
「あの。これ、何に追われて」
僕たちは何から逃げているんだ。
「公務員」
「公務員?」
「国家公務員だよ、俺なんかと違って、荒事が得意な奴ら。実力行使部隊」
なんだそれ。どういうことだ。
まるでわからない。
藤木がドアポケットをゴソゴソと探る。
「ほい」
とんと胸に押し付けられたのは、ペットボトルのお茶だった。
「飲んで落ち着きな」
未開栓だった。
*
藤木は運転を続けながら、クラッチバッグから器用にノートを取り出して、僕に渡した。
「さすがに説明しないといけないね」
A4罫なしの白紙に、太めのボールペンで図が書かれている。
名前。線。名前。線。名前。
達筆だった。線と線の平行がきっちりとれている。
「……これ、家系図ですか」
「そう」
それは、長い長い家系図だった。てっぺんに書かれているのは前田利家という名前である。
「戦国時代?」
「さすが、郷土愛だね」
別に金沢人でなくても前田利家くらいわかるだろうに、と僕は思った。
右下の隅に、僕は自分の名前を見つけた。
「僕は前田利家の血を引いてるってことですか?」
変な声が出た。自分の家系図なんて見たことがない。祖父母より上は全く知らない。
「いや、それはまあ、家系図っていうのはそういうものだからね。何のために家系図を作るかって、それは家の由緒を主張するためなんだから。これは僕が省略しているから前田利家までしか書いていないだけ。真剣に家系図というものを作るなら、むしろ前田利家程度で始まるのは変だ。前田利家は菅原道真の後裔と言われているし、ということは土師氏にルーツがあるわけだから、家系図を書くならばスタートは天穂日命であるはずなんだ」
自分の先祖が神様になってしまった。
「まあ、上の方は良いんだよ。問題は途中から始まる丸の付いている人々だ」
「丸って」
確かに家系図の途中から、丸がついている。それは紙面左側のスペースに点在し、しかし、どの丸にも斜めに線が引かれている。ちょうど、ギリシア文字のφみたいに。
「神谷内くんは憑物筋って知っているかな」
「いえ……」
「憑き物と言われる動物霊が、家系に対して憑いているという考え方があった。狐がメジャーで、管狐とか、オサキとか、聞いたことないかな。あと犬も。犬神家ってあるでしょう」
全く聞いたことがないわけではない。
「ま、北陸ではあんまりメジャーではないね」
また車が犀川大橋の横を差し掛かる。何度目だろう。この車は市街をぐるぐるぐるぐる回っている。さっき燃えた車が、レッカーで移動されていた。犀川大橋が封鎖されたことで周囲はひどい渋滞だ。炎が触れた部分の青い塗装が、真っ黒く焦げている。
藤木は窓をまた数センチ開けて、何かを放り捨てる。最初はタバコの吸い殻をマナー悪く捨てているのかと思ったけれど、明らかに吸ってなんかいない。
「憑き物というのは動物霊で、名前の通りその家の人間に憑くわけだけれど、悪さをするわけじゃない。いや、悪さはするのか。少なくとも、憑かれている人間に対して、憑かれている本人に対しては、害をなすわけじゃない。曰く、あの家は憑物筋だ。あの家の人間は、管狐を使って、盗みをする。邪魔者を殺す。大体はそういう噂が流れる」
「その家の人の言うことを聞く妖怪、ってことですか」
「そうだね」
僕は、手元の家系図の丸印を見る。いずれの丸にも、上から斜め線が引かれている。
斜め線が引かれていない丸が、まだ生きている丸が、一つだけある。
僕の名前の上に、それはある。
「君たちの場合は、鼠だ」
ネズミ……。
「僕の家系に、僕に、鼠が憑いている、っていうんですか」
「けれど、君には見えない。その家系図で見たら分かる通り、君は傍系の傍系なんだ。本来なら、鼠の方は君を見つけることなんてできなかったであろうほど、離れている」
僕は本当に紙の端の方にいる。
僕は自分のすぐ上にいる父の名前を見た。
予想に反して、丸はついていなかった。僕は父から憑き物を引き継いだというアイデアが、一瞬そんなに悪くないもののように思えたのだが、急に薄ら寒くなった。
「三ヶ月前、本筋の唯一の男の子が亡くなった。交通事故だ。それで、おそらく鼠は主人を見失った。この鼠は、成人には憑かない。ところが本家本筋には成人が一人もいなくなってしまった」
紙の端の方の僕の名に、丸い印が付いている。
「しかし、鼠は幸運なことに、君を見つけた」
丸い印が、憑いている。
「君は不運なことに、鼠に見つけられた」
丸い印は、黒のボールペンで書かれているのに、燃えている。
「君には鼠が憑いている。本来力のない君には見えないけれど、火鼠が憑いている」
火鼠。
僕は思わず、自分の身体を見下ろした。自分の両手を見つめた。
「だから君には見えないんだって。気配も感じられない」
「……さっき、車が燃えたのは」
「そうだよ、君に代わって、火鼠が燃やしたんだ。危なかった。車じゃなくてあの男を爆発炎上させてしまっていたら、さすがの僕とて庇いきれないところだったね」
僕は身震いする思いだった。自分の両手が急に遠くに見えた。
「しかし、これだけ長い間この妖怪は生きてきたのだから、今度もうまくやるさ。文化庁の立場としてはね」
「うまくやるって」
「でも放火少女には似合いの憑き物じゃないか。火鼠が君を発見したのは、もちろん君が、お父さんを亡くして以来、やたらと火を使っていたというのがトリガーだろうね。本を燃やしてたの、見てたよ。何冊燃やした?」
四十二冊。
言わなかったけど。
「そこを媒介にして、つまり君の精神と火の接近を使って、火鼠は入りこんだんだろう。あとはそう、名前だね。君の名前。珍しい漢字じゃないか」
「父がつけたそうです」
「そっか」
理由は知らない。父に聞きそびれたことがたくさんある。
「ああ、そうだ、神谷内くん、この間はお父さんのことでひどいこと言って、ごめんね。いや、君があの場で僕を燃やそうとすることを期待していたんだけれど……。対人ストレスでカッとなった時に発現しやすいそうだから、そこで姿を確認したかったんだが……」
「はあ……」
それで、あの場でこの人を燃やそうとしていたらどうなったというのか。僕は、いいアイデアとはとても思えなかった。
「学生時代の先輩でね」
藤木がぽつりと言った。
「……父のことですか」
「そうだよ。神谷内先輩。まあ大学出た後はほとんど会わなかったなぁ。君は覚えてないだろうけど、通夜にも出たよ」
全く覚えはなかった。親戚ですら誰がいたのか覚えていない。
「本音を言えばさ、お父さんの本を読むのは良いことだと思うよ。きっとお父さんも喜ぶさ」
藤木は目を細めて言った。
「燃やすのはどうかわからないけど。でも、一つ言えるのは、別に、ゆっくり読めばいいんだよ、君は」
僕は何も言わなかった。
「全部読んで、全部燃やすまで、他のことをしちゃいけないってわけじゃ、ないんだからさ」
藤木が父の話をしてくれるかと思って、僕は黙っていたけれど、藤木はそれきり何も言わなかった。
車内には甘いにおいがずっと漂っている。
「……さて、そろそろつくわけだが」
気づけば車は市街地を離れ、おそらく北の方へ向かっている。
「君たちの家系も、当然その火鼠との付き合い方を心得てきた。それを飼いならし、辺り構わず火の海にしてしまうことがないように、制御下に置く方法が、当然に存在する。というか、そういう方法が存在するからこそ、火鼠は駆除されずに生き残っているわけだ」
山道を登る。ぐるぐると登る。
「我々文化庁の役目は、君とその火鼠に決定的な触法行為を回避させ、穏便に人間社会と共存することを選ばせることだ。いま、神谷内くんは君の家系が本来持っているべき知識を持たない。下手をすれば、公安に消されてしまう。貴重な妖怪が失われるのは防がなくてはならない」
車が木漏れ日の中を走り、ツンと鼻につくにおいがする。
「例えば君が、人を死に至らしめるような火付けをしてしまうと決定的にまずい。だからその前に、火鼠を封じる専門の技を持つ施設に行く」
「お祓い、みたいな感じですか」
現実的が失われて、話についていけない僕は、機械的に問いかける。
「まあ、雰囲気としてはそんな感じだと思うよ。実際その施設というのも神社だからね。お祓いに近いイメージだ。ただ、火鼠を祓うわけじゃない。憑物落としをやっても、火鼠が違う子供のところに行くだけだからね。君からしたらそれでも良いかもしれないけれど、結局他の人のところで同じ問題が起きる」
カーエアコンが外気を取り込んでいるからだろうか、車内の空気は、ひどく冷たくて、そして、煙臭い。
「だけどこれは」
山道が開けて、車が駐車場代わりの砂利を敷いた広場に入ると、空は赤々と燃えている。
燃えている。
燃えているのだ。
「決定的にまずいのかもしれないなぁ」
その神社は。
その神社は炎上していた。
炎の中に鳥居が浮かび上がり、もうもうと立ち上がる煙が赤く染まる。
僕は思わず、また自分の両手を見た。
火鼠がチュウと鳴くような気がした。