燎火
金沢三文豪といえば、泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星の三人である。この土地から文豪が三人も出ているというのは、それだけですごいことなんじゃないかと僕は思う。泉鏡花と徳田秋聲は二歳違い。小学校まで同じ。僕はその小学校の出身だ。だから僕にとっては泉鏡花と徳田秋聲は、なんだか馴染みのある名前だ。作品をちゃんと読んだことはなかったけれど。
泉鏡花と徳田秋聲の二人の関係は不思議だ。二人共、尾崎紅葉門下だったのは共通点。鏡花は尾崎紅葉を崇拝し、尾崎紅葉も鏡花を溺愛していたというのは有名な話だ。一方の秋聲は、紅葉門下四天王(鏡花、秋聲、小栗風葉、柳川春葉)としては地味な存在で、その時期の活躍は、これまた地味だ。
秋聲は一度、紅葉に入門を断られている。東京は牛込を訪ねていったが、紅葉は不在。仕方なく原稿を郵送したところ、「柿も青いうちは鴉も突き不申候」という言葉とともに返送されてきてしまう。秋聲はその手紙を破り捨て、以来放浪生活を送るようになる。
彼が牛込の秋聲の自宅を訪ねたとき、玄関番をしていたが他ならぬ鏡花だった。
「先生は今ちょっとお出かけですが……」
と、言った鏡花は十八歳。一年前に上京し、紅葉門下に入り、書生生活を送っていた。追い返された形となった秋聲は二十歳。
なんだか手紙を破りたくもなる気持ちが見えるなぁ、と僕は思う。
僕が河原で、四十三冊目の秋聲の自伝小説を読んでいると、男が声をかけてきた。
事案おじさんではなかった。
「香熾ちゃん」
「死ね」
僕は素早く答えた。
「死ねは良くない」
立っている男は宮本という名前の、父のかつての同僚だった。父が突然事故死してから、葬式やら何やら、何かと世話を焼いてくれた男だ。優男然として、父とは同年代だというが、見た目は父より若々しい。いつもニコニコと微笑を浮かべている。だがクズだ。この男は最近、母に露骨に言い寄っているのだ。死ね。
「ごめんね、読書の邪魔だったかな」
「読書に限らずすべての面で邪魔」
「ひどい。香熾ちゃん、ちょっと話がしたいんだけど、いいかな」
良いわけがなかったが、走って逃げるのも癪だったから、僕はこのまま聞き流してやろうと本に目を落とした。全然文字が入ってこなかった。
「話くらい良いじゃない」
「死ね」
「死ねはよくない」
うるさい死ね。今からお前の名前は死ねだ。
僕は本の文字を頭にいれるのはもう諦めたが、しかし本から目は離さなかった。言いたいことがあるなら勝手に言って、さっさとどっかに行ってくれ。
「ほら、香織ちゃん、ちょっと付き合ってよ、そんなにツンツンしないでさ」
死ねはなおもそう言った。いいかげんに宮本。
「ここじゃなんだしさ、お茶でも飲みながら話そうよ」
一拍おいて、その言葉の意味を読み取って、僕はちょっと愕然とした。
事案おじさんにべらべら話しかけられるのに慣れてしまって、話というのは河原で座ったままするものだという感覚になっていた自分を発見したのだ。そうだよ、普通大人の男が話をしようと言ったら、喫茶店くらい行くものじゃないか。
僕は腹がたったので、喫茶店で一番高いメニューを注文してやろうと思って立ち上がった。
*
結局、日和ってカフェオレにした。
貸しを作るのも良くないから仕方ないということにしておく。
「僕の留守電を消してるだろ、香熾ちゃん」
ニコニコと気持ちの悪い笑みを浮かべて宮本はオレンジジュースを吸った。オレンジジュースて。ガキか?
入ったことがない喫茶店だった。壁掛け時計がやたらと多い。丸いの、四角いの、丸の下に五角形の胴体がついているの、たくさんある。振り子が付いたタイプのものが半分ほど。規則正しく時が刻まれていく感覚が心地良い。はずだ。こいつがいなければ。
宮本は、最初は確かに親切で、頼りになった。しかし、だからこそ厄介だった。母にしてみれば恩がある相手であろうし、その宮本が家に立ち寄るのも、連絡してくるのも、真っ向から拒否するのは憚られるのは無理なかった。ただでさえ働き詰めで母は疲れているのだ。余計な心労を増やすこの男の存在が、心底邪魔だった。僕を「父親を亡くして精神が不安定になっている思春期の女の子」みたいに扱おうとして、見え透いた微笑を浮かべているのも大嫌いだった。アクセントが違うから、この土地の人間ではなさそうだ。父もかつて勤めていた会社だが、さっさと潰れろと思った。そうしたらこいつもここからいなくなるだろうかと思った。
「香熾ちゃんがお母さんのこと心配なのはわかるよ。でも、お母さんが苦しんでいるのもわかるだろう?」
全然全くこいつが何を言っているのか本当に1ミリもわからなかった。早く死んでほしい。ああ、ここ1週間くらい僕は本当に精神が不安定なんじゃないかと思った。わけのわからない事案おじさん、変な火事、そしてこの男。精神がぐらぐらする。
「秋保さんも、きっと香熾ちゃんのことが心配なんだ」
神谷内秋保。母の名前だ。なんで下の名前で呼ぶ。次に秋保さんとか呼んだら殺すぞ。
僕は心のなかで最終警告した。
次に秋保さんとか呼んだら殺す。少なくともこのグラスの水はぶっかける。
「秋保さんを自由にしてあげないと」
一歩遅れて、自分がテーブルを叩いて立ち上がったのがわかった。
バン、と結構大きな音がして、実際僕は自分が水のグラスをひっつかんで投げたのかと思った。
そんな感覚はなかったけれど、怒りに任せてそういうことを自分がしたのかと思った。
自分が実際に何をしたかよりも先に、やってしまった、という直感が先に来た。
実際には、僕はグラスを投げたりしていなかった。
というか、多分何もしていなかった。
そのはずだった。
けれど宮本の顔は引きつっていて、いつも張り付いている微笑が消えていて、宮本の背後の窓ガラスが割れていた。
宮本の背後の窓ガラスが割れていた?
割れた空間の向こうに見えるのは美しき川、そしてそこにかかる犀川大橋で。
青々と輝く犀川大橋の上で、何かが燃えていた。
炎が上がっていた。
……炎?
それはありえないくらいよく見えた。
いや、あり得なかった。
見えすぎていた。
犀川大橋に並ぶ車が爆ぜ、燃え、弾けて、火柱が、炎の柱が、青い橋を焼き、青い空を焼いている。すべてを灰にしてしまう炎が、あらん限りの怒りでもって、八つ当たりのように、神罰のように、それが僕の、普通の人間の視力では絶対に見えない距離の遠くのそれが、まるですぐ手元にあるかのように、炎の舌先の一つ一つまでもが、
「はいはい注目! 皆さんこっち! 注目!」
騒然となった喫茶店に誰かが飛び込んで来て叫んだ。
「みなさんこっちを見て! 聞いて! 耳と顔こっち向けて!」
妖怪担当の藤木だった。
「緊急ニュースです! 聞いてください!」
藤木は携帯電話くらいのサイズの何かを、高々と掲げた。
――▼▼▼▼
ん、なんだこれ。
――▼▼▼▼▼▼▼▼▼
その何かから発せられる音は、言葉であり言葉ではなく、音楽であり音楽ではなく、記号であり記号ではなく、音響であり音響ではなく、記憶であり記憶ではなか
「あっれー? マスター、まだあのままなんですか、あの窓」
藤木が唐突に言った。何かはもう掲げていない。
あっれー? マスター、まだあのままなんですか、あの窓。
と、彼は言った。
振り返ると窓が割れていた。あれ、こんななってたんだ。気づいてなかったな。
ああ、『あのまま』って、割れたって意味か。あのままってことは、昨日とかに割れたのかな? それがそのまま放置されているってことか。マスターもどうして直さないんだろう。不思議だ。
「昨日子供が遊んでたボールで割れちゃったやつですよね。修理呼びました?」
マスターは目を瞬いている。
ああ、昨日子供が遊んでたボールで割れちゃったのか。そういうことはまあ、あると思う。子供の遊びならあまり責められないし。雨が降る前になおした方がいいよな、と僕は思った。防犯的にもよくないだろうし。
「まだ呼んでないんですか? ダメですよー、今日は天気良いから良いけど、雨降ったらどうするんですか。俺呼んであげますよ。良い工務店知ってますから」
そう言うと藤木は携帯電話を取り出し、僕の手を掴んで店の外に連れ出した。
「喫茶店の主人をマスターって呼ぶやつさ、俺一回やってみたかったんだよな」
まだ藤木は若干焦げ臭かった。