急火
日が落ちるとやっぱり少し肌寒い。星は見えない。月は出ていない。曇った空は街灯りを反射して、どんよりと薄黒い。僕はスクールバッグから水でない方のペットボトルを取り出し、地面に立てて置いた室生犀星詩集にゆっくりとその液体を注いだ。
素敵な本でした、お父さん。ありがとう。
油の臭いに鼻の奥がくすぐられる。
われまづしき詩篇に火を放ち――
僕は安物のターボライターで、本に火をつけた。炎が本を駆け、紙を舐めあげる。ページが四隅からくるくると巻き込まれ、黒く灰になって空気に染み込んでいく。
父が僕のために残してくれた本を、僕は読み取り、吸収し、そして父の棺に入れてあげられなかった本たちを、こうして火葬するのだ。
本は黒ずんで灰の塊になっていく。遠くで消防車のサイレンの音がする。まさかこれを消しに来るわけではあるまいと思うけれど。
全部燃えてしまえと僕は思った。
人間最後は灰だ。
父の死は突然だった。特に何の変哲もない事故死だった。気持ちが追いつかなかった。葬儀は無難に済んだ。すべてが滞りなく終わって、手元に父の蔵書が残っているのに気づいた。
俺が死んだら一緒に燃やしてくれ、と言っていたのを思い出した。
この本は燃やされるべきだったのに、燃えていない。その事に気づいて焦った。
けれど、僕は四十二冊目をこうして読み終えて、こうして父の跡を追いかけさせることが出来た。
炎が尽きて、灰の塊が燻る。遠くで消防車のサイレンの音がする。犀川の河原は薄暗い。街灯の類は限られていて、川に近いここまで照らさない。橋や街の灯りだけが見えて、世界から置いてけぼりにされてしまったような空間がここにはある。燃え尽きて風に飛ばされた灰の行方も、闇の中で知れない。きっといくらかは犀川に落ちて、海まで注ぐかもしれない。僕はそれを想像する。自分が灰になって、海に至るのを想像する。
甘いような、煙たいような、不思議なにおいがした。
いや、煙たさが三割増しだ。
「やあ、神谷内くん、ここにいたんだ」
男は焦げていた。
髪の毛はチリヂリで、頬は煤け、わかりやすい焦げ姿だった。服もところどころ焦げており、ジャケットの袖なんかは焦げてさらに短くなったみたいで、むしろ本来はちょうどいい長さだったようにさえ見える。わかり易すぎる焦げ姿は滑稽で、僕は昼間のイラつきが消えてしまうというか、振り上げた拳の行き場がないというか、空振りした気分だった。
せいせいする。
ざまあみろ。
「何してるんですか、ここで」
「悪いやつの取り締まり」
「悪いやつって」
「放火魔とか」
「放火魔?」
僕はさり気なく、全然さり気なさを装えてなかったけれど、足元の石を動かして灰を多少なりとも隠した。
「見ての通り、ホテルから焼け出されてね」
「放火されたんですか」
「俺はそれを疑っている」
「このあたりに犯人が?」
「俺はそれを疑っている」
「ふうん、怖いですね。じゃあ僕はそろそろ帰ります」
「神谷内くん、ところで君は、一時間くらい前はどこでなにをしていたのかな」
「家で、本を読んでいました」
「お母さんは?」
「仕事」
「じゃあ家には一人だったんだ」
「そうですね」
「誰にも会っていないんだ」
「そうですね」
「そのペットボトル、お茶?」
「……」
「それともミネラルウォーターかな? 俺随分焦げちゃったから、水分が欲しくなっちゃったな、ちょっと分けてもらえない? 未開栓? 未開栓じゃなくてもいいけど」
「事案だぞ」
「むしろ事件になるのかもね」
男は袖を引っ張ったが、煤けた袖は破けてしまった。
「事件入道かな」
事件入道ってさすがに何だよ。