熾火
帰宅するとまず留守電を消した。懲りずにあの男がまた録音を残していたからだ。馬鹿じゃないのか。死ね。
ご飯を炊いて、作りおきのおかずを温めて夕食にした。厚揚げ豆腐の味が優しかったが、無音の部屋の中で食事を取っていると、自分の咀嚼音がやけに響き渡る気がして、テレビを付けた。テレビの音がやけに響き渡る気がして、消した。
文化庁の男について考えた。いや、本当に文化庁だったのかは知れないなと思った。結局、名刺は突き返してしまって、受け取らなかった。作り物の名刺かもしれない。というか妖怪担当とか書いてある名刺が本当に文化庁にあるのだろうか。無いだろう。普通。妖怪担当ってさすがに何だよ。あと寄り道入道ってさすがに何だよ。
僕の名前を知っているのが気味悪かったので、僕はさっさと逃げ出してきた。いや、正確に言えば、男は、藤木圭吾は、それが僕の名前であるということは知らないようだった。ただ彼は、神谷内香熾というのは錦ヶ丘中学校の女子生徒であるということを知っているようだった。
文化庁の妖怪担当を名乗る怪しい男が、自分を探している。
もちろん良い気はしない。それ自体が気持ち悪いし、逆に僕以外の学校の生徒にあんな風に声をかけて、僕の名前を出して質問しているのだとすれば、僕の印象がものすごく悪くなるのではないか。とんでもない被害だ。
厚揚げ豆腐の味以外すべてが優しくなかった。僕は食後すぐに皿を洗った。
男が漂わせていた甘くて煙たい香りが鼻にこびりついたようで、離れなかった。
*
「ああ、香熾」
母は夜遅く、てっぺんを過ぎた頃に帰宅する。毎日。青白い顔を一層青くして。
「おかえりなさい」
「ただいま」
母は大きく息をつく。僕は冷蔵庫の麦茶をコップに注いで渡した。
「ありがとう」
蛍光灯の音がうるさい。
「香熾、今日、学校はどうだった」
僕は首をかしげた。
「いや、別に……」
「授業はどうなの」
「普通だけど……」
母は麦茶を飲み干し、コップを置いた。
「今日昼間、先生から電話があったのよ」
あ、まずったな、と僕は思った。
「神谷内さん、昼休みの間に帰ってしまったようなのですが、って……。具合でも悪かったの、香熾……」
「う、うん」
「そう……学校早退するときは、先生にちゃんと言いなさいね……」
そう言う母はますます老け込んだように見えた。
僕は明日からはちゃんと学校に行こうと思った。
母がこんなに働き詰めでいるのに、僕が学校をサボっているのはなんだかおかしいと思った。学校にいかないならせめて自分も働くべきだ。中学生にはろくなバイトもできないだろうけど……。いや、それもきっとダメだ。母は僕が働くのなんて認めないだろう。学校に、いかなければならないと思った。
そう決意すると、学校は一層邪悪な場所のように思えた。別にいじめられているとか、勉強が全く出来ないとか、そういうことがあるわけじゃないけど。でも、何だか僕は、学校という場所に、その集団に、馴染むことができずにいた。布団に入ると、醜悪な学校という空間に、死にそうな顔で出征する自分の姿が浮かんできた。ああ、いやだ。学校なんてなくなってしまえばいいのに、と僕は思った。
夢の中で学校を燃やした。
翌朝。
「ああ、香熾、先生から電話があったのよ……」
「え、なんて」
「今日は休校だって。火事があって、火はすぐ消えたけど、放火かも知れないから。警察が捜査してるって……」