種火
うつくしき川は流れたり
そのほとりに我は住みぬ――
文庫本を閉じ、顔を上げる。
僕の目の前に「うつくしき川」がある。
文庫本の乾いたにおいが鼻を優しくくすぐる。父の四十二冊目の文庫本は、僕の定位置の川を歌っていた。
犀川は強い。雄大な川である。キラキラと輝きながら、それでいて水量が多く、流れも速い。毎日見ていても飽きない。毎日変わらない、力強い自然がここにいる。それは僕の心の支えになってくれる。
夏休みが明けてから学校をサボりがちだった。今日もこうして本を読んでいる。学校が始まってしまうと読書の時間が圧倒的に取れなかった。そのことに、僕は言いようのない恐怖を感じていた。僕には進捗が必要だった。
だからここにいる。
「うつくしき川」の前にいる。
僕が回収できた父の本はざっと百冊。こうしてみれば、まだ折り返せてもいないのだ。ここでペースを落とすわけにはいかない。
すべての本を読むこと。
感想を記憶に残すこと。
読み終わった本を父に返すこと。
僕はひたすらにそれを続けた。
風が吹いて、もう夏服だと寒いなと思った。
四十二冊目の途中で、ゆらりと現れた男、陰鬱な冷笑を浮かべたその男からは、甘いような、煙たいような、不思議なにおいがした。
「そうだね、確かに、ここで読むのにはうってつけなのかもしれないけれど」
思わず身を引く僕に構わず、ずいと文庫本の背に顔を近づけた男は、タイトルを読み上げる。
「室生犀星詩集。いくら金沢市民だって、そんなの読んでる中学生いるかい?」
「なんですか、おじさん」
僕は露骨に眉を顰めた、と思う。
「公務員」
「公務員?」
「しがない国家公務員だよ」
男は、かろうじて襟があるから許されるでしょう、とでも言いたげなギリギリな格好をしていた。ろくにアイロンもかかっていないワイシャツのボタンをはだけさせ、紺色のジャケットの袖は若干足りていない。突き出た腕にはチープカシオ。許されてないぞ。髭面の目は妖しく、どこか哀愁さえ感じさせた。僕の学校では学年だよりに不審者情報欄というのがあって、どこでどういう不審者が出ましたみたいなことが注意喚起として載っているのだけれど、それが脳裏に浮かんだ。
犀川大橋付近の河川敷で中年の男が『国家公務員だよ』と女子生徒に声をかけた事案。
「国家公務員が何してるんですか、ここで」
「悪いやつの取り締まり」
「悪いやつって」
「妖怪とか」
「妖怪?」
犀川大橋付近の河川敷で中年の男が『妖怪退治だよ』と女子生徒に声をかけた事案。
「妖怪は何処にでも存在するからね。人の心あれば妖怪あり。君や俺の中にも妖怪と言うものはいるんだよ。じっと覗き込めば見えてくる」
犀川大橋付近の河川敷で中高年の男が『ほら見て。俺の妖怪』と女子生徒に声をかけた事案。
「事案だぞ」
僕は言った。言うほど事案ではなかった。
「君、錦ヶ丘中学の生徒だよね」
僕はますます眉を顰めた。四十二冊目を鞄にしまう。
「いや、そんな怖い顔しないでよ。妖怪みたいだよ……」
眉を顰めるというよりも顔を顰めるような状態になってきた。さすがに女子を妖怪呼ばわりするのはよくない。
「違うんだ、俺、女子の制服を見たらどこの学校かわかるってだけで」
「事案だぞ」
僕は言った。事案だった。
「いやだってほら、一応所轄省庁だからさ。あ、俺、文部科学省のこういうもので」
男はジャケットの内ポケットから名刺を生で取り出し、慌てて裏返してから僕に差し出した。
文化庁文化部宗務課 企画官 藤木圭吾
いや、文科省じゃないじゃん、と僕はつっこみかけて、文化庁って文科省の外局か、と思った。外局というのがどういう仕組なのかよくわからないけれど、文化庁は文科省の子会社みたいなものなのだろう。
裏返してみると、こう書いてあった。
文化庁文化部宗務課(妖怪担当) 企画官 藤木圭吾
「妖怪担当ってさすがに何だよ」
「うわ、やめてよ、そっちは秘密の方だから」
「じゃあ両面にするなよ」
「白黒両面印刷必須なんだよ」
環境省からの圧力が、と男はモゴモゴ言った。
「いやいや、ごめんごめん、寄り道しすぎたね。寄り道入道かな。君に聞きたかったのはさ」
寄り道入道ってさすがに何だよ。そういう妖怪がいるのか?
「君の中学校だと思うんだけれどさ、かみやちかおりさんって子、知ってる?」
神谷内香熾。
それは僕の名前だった。
事案だぞ。