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「私の仮説はこうです。神谷内香織は、狼だが、もともとそうだったわけではない」
「ほう。ほーう。なるほどね。出自か。考えたことなかったなぁ」
みとはちさんが考え始めます。
「確かに。今現在狼であるかどうかはわかっても、それが先天的に狼なのか、後天的に狼なのか、それはわからないわけだ。だからそこに仮説設定の余地があるねぇ」
みとはちさんはこれを仮説のゲームとして楽しむつもりのようです。
「まず彼女の名前です。今は香織という字を名乗っています。学籍の書類もそうなっています。けれど、見てください。中学までは香熾という名前を使っていたんです。高校に入ったタイミングから、香織に変えています」
私は卒業アルバムのコピーを出しました。名前の話を津幡さんに聞いて、職員室で調べてみたのです。中学生の頃の香織はまだ髪が結構長くて……でもなんか目つき結構鋭くて……その……良さがある。しかし写真の下の名前は神谷内香熾になっているのです。
「へぇ、卒アルじゃん。どやってこんなの持ってくるのさ」
「がんばりました」
「がんばるのやめろ」
「熾というのは、火を起こす、と同源。熾す、で火の勢いを強くすること。熾火、といえば赤くなった炭火。そういう、火、炎に関係する文字なんです。珍しい名前の文字だったんです。けれどある時から、それを避け始めた」
「まあ、あんまり良い意味の文字には思えないから、嫌だったのかもしれないね」
「漢字が好きでなかった可能性はあります。けど、ちょっと好みに合わないと言うだけで、こうバッサリ漢字を変えてしまうのは勇気がいりますよ。確認はしていませんが、普通に考えれば戸籍上の名前は香熾の方なわけで、高校入学時と大学入学時、それをどうにかして偽って、香織、で学生登録しているわけです」
そう言って私は、香織のバイトの履歴書と、それに添付されていた学生証のコピーを取り出しました。履歴書と学生証の名前は香織になっています。
「相当思いきらないとこんなことできませんよ」
「いや、思い切ったらできるのかね……」
「まあ色々やり方はあるでしょう。文科省に知り合いがいるとか」
「いや、文科省に知り合いがいても無理では」
「じゃあ大学に知り合いがいるとか」
「もっと無理では?」
「それで火についてです。彼女が中学生の時、学校で不審火がありました」
私は例の一連の新聞記事を出しました。
錦ヶ丘中学校の不審火。
ビジネスホテル『プレミアムホテル金沢』の火事。
犀川大橋での自動車火災。
日宮神社の火事。
市街のオフィスビルでの火事。
「ははぁ、これなに、連続放火?」
「距離と状況がバラバラすぎるんですよ。単一犯の連続放火にしては。規則性もないし、だいたいホテルの部屋の中とか、オフィスビルの特定の階の天井とか、火の付け方がよくわかりませんし、自動車火災はもうこれ、謎の爆破みたいなものです」
「不思議な事件だねぇ」
「これが火、炎じゃないかと私は思うんです。この炎から、彼女は逃れて、名前も変えて、東京に出てきたのではないかと」
「ふぅん?」
みとはちさんは眼鏡を上げました。
今のは無茶苦茶、というか、私は何も説明できていません。香織が火を嫌がったという可能性と、その時期に金沢で不審な火事が起きていたという二つの事象が、つながる理由を説明できていません。
だからこそみとはちさんは、私に先を促していました。
「狼というシンボルについて調べてみました」
「お、民俗学っぽい。そういう大学目指してみたら?」
「就職に困りそうなのでイヤです」
「確かに」
「日本において、狼というのは山の聖獣で、神格化された存在です。お犬様。山犬。大口真神。他の動物は、だいたい神の使いですが、狼は同時に神そのものであることもあります。狼は、大神ですからね。古くは古事記から、ヤマトタケルの話に度々登場しています。また、山岳信仰と相性が良かったために、庶民から広く信仰を集めました。爆発的に流行ったのが江戸時代で、狼は災いから守ってくれる存在として信仰されました。本当かわかりませんが、江戸時代には狼の御眷属の御札が年間一万枚売れたという記録があるそうです。狂犬病が流行ったりして勢いがなくなって、結局最後は稲荷信仰の方が強かったようですが……」
「まあお稲荷様は強いからねぇ」
「そしてこれを見てください」
私は携帯を取り出しました。
例の画像。
画面に写っているのは、香織の首筋のあたりです。
「いやいや、なにこれ、裸じゃん」
「裸でないと見えないじゃないですか」
「背景シーツじゃん」
「地面で撮るわけにいかないでしょう」
「いやいや、なにこれ、え、盗撮?」
「全身写ってるバージョンもあるので、抱き枕カバー化もできます」
「抱き枕カバー化するな」
「ともかくご覧頂いて分かる通り、そういうことなんです」
それは怪我をした彼女を家に連れ帰り、寝間着を着せている途中に目に入ってしまったものでした。
神谷内香織の首筋には。
浮き上がる背骨の下辺りには。
お犬様が描かれた小さな御札が貼り付けられていました。
それは日本の狼の姿のようでもあり、西洋の人狼の姿のようでもありました。むしろ、それらをミックスしたような、奇妙な姿でした。
「神様のパターンとは別に、狼は人に化ける生き物でもあります。狐ほどじゃありませんが、狼が人に化けていた伝承というのは、例えば『鍛冶屋の婆』とかが有名ですよね」
『鍛冶屋の婆』は、『千疋狼』とも呼ばれる伝承の類型です。
山道を歩いていると、夜になってしまった。狼の群れに追われた主人公は、たまらず木に登る。すると狼は木に登れないので、次々と肩車をして木の上の主人公を狙ってくるが、ギリギリ届かない。すると狼達は、「何処其処の鍛冶屋の婆を呼べ」と話し合う。やがてひときわ大きな狼がやってきて、肩車されて木の上の主人公に襲い掛かってくる。必死に主人公が脇差で斬りつけると、手応えがあり、狼達はみんな逃げていった。
翌朝、村についた主人公は、「鍛冶屋の婆」を訪ねていく。婆は怪我をして寝ている、という家人を押し切り、部屋に飛び込んで寝ていた婆を斬り伏せる。するとみるみるうちに婆の身体は狼のそれに変化する。床下を明けてみると、婆の骨が見つかった……。
「これは一番有名なパターンです。色々と派生パターンがありますが、面白いのは、婆が元から狼だったパターンもあるんです。つまり、床下から本当の婆の骨が出て来る下りが無いパターン。婆は元から狼で、人間に嫁いだという、異類婚姻譚の要素が入ったものですね。その場合、必ずと言っていいほど付け加えられる設定が、『その家系は、背筋に狼の毛が生えている』なんです。狼の血を引いていることの証左が、背中の毛として現れている。だからこれは、純粋に学術的興味として、つまり神谷内香織という狼が、先天性なのか後天性なのか、それを見分けるための手段として、私は背筋を見た、そして資料としてそれを撮影した、そういうことなのです」
「そういうことではない」
「ともかく、この御札です。狼の毛ではありません。毛は生えていなかったのです。毛は生えていなかった。はい。つまり……つまり、香織が狼になったのは後天的と推定できます。というかこの御札の効果でしょう、十中八九。さて、普通このお犬様の御札は、御眷属の御札は、どういうご利益を謳って使われているか、みとはちさんはご存知ですか」
「んー、なんか悪いものから守ってくれるとか、そういうざっくりした感じじゃなかったかね」
「大筋合っています。実際そのように拡大解釈されています。しかし遡れば、その源流というのは、火盗除け、なんです」
火付け盗賊。それを除ける。
「ああ……そこで、火につながるんだ」
みとはちさんがゆっくりと息を吐きました。
「そうです。彼女は中学生までは香熾という名前を使っていましたが、高校に入って東京に出てきたタイミングで、香織に漢字を変えています。中学時代、明らかに不自然な火事が、彼女の通っていた中学を皮切りに街中で起きました。その火を封じるための狼なんじゃないか、と置くのは、無理矢理過ぎる仮説でしょうか?」
「……」
「ついでに言えば、御眷属様のご利益はもう一つ有名なのがあります。憑物落としです。火に憑かれた彼女が、それを落とすための手段として頼っているのが狼なのではないでしょうか」
「……」
みとはちさんは黙って、眼鏡を上げたり下げたりしています。
「眼鏡を上げたり下げたりするのやめてください」
みとはちさんは眼鏡を上げました。
そしてゆっくりと口を開きました。
「燈花ちゃんさぁ、香織っちと最後に話したの、いつ?」