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二本目の電話をかけます。
あたりまえですが。私はルーマニア語がわかりません。
ホテルなら英語が通じるだろうと思って、とりあえず電話をかけてみましたが、一人目に出た人は英語がわからないようでしたし、二人目に代わってくれた人もそれほど上手とはいえず、私だって英語が上手などとは死んでも言えない出来ですから、先生につないでもらうのにたっぷり十五分を要しました。あまり都市部にあるようなホテルではないのだと思います。途中で電話を切られずに良かったものです。
「Alo.」
「もしもし、稲荷木です。藤木先生ですか」
「……稲荷木くん?」
それは紛れも無く、藤木先生の声でした。
私達の研究室のボスにして。
西洋の半人半獣伝承、特に、人狼の専門家。
「よかったです。藤木先生、突然電話をしてすみません。ご相談したいことがありまして」
「ええ。なんでこの番号分かったの。占いかなにか?」
この人も占い師なのでしょうか。変な人ばかりです。
「まあいいや、俺もちょうど、稲荷木くんにはメールでも送ろうかと思ったところだよ」
「私に、ですか」
「うん。あのゼミの資料を見たよ」
先生はびっくりすることを言いました。
しかし考えれば、自主ゼミの資料は学科のファイルサーバーに保管しています。学部生は学内からしか見られませんが、教員はインターネットから接続することもできるのでしょう。
「面白いね。君は普通の人間ではないのかもしれないとは、俺も思っていたけど、妖狐の血筋とは、恐れいったよ」
先生はびっくりすることを言いました。
今度は本当に、私は驚きました。
「普通の人間ではない、って」
あまりのことに、取り繕うことが出来ません。
「資料は語る。資料を並べる人間は、資料に語らせたがっているからだ。あの資料は雄弁に語っていたよ。稲荷木くんこそが、『アシキ』の血を引く人物であるということをね」
「どう、して」
「俺も一応、専門家なわけだから」
それは資料の専門家という意味なのか、半人半獣、半人半妖についての専門家という意味なのか、私には判断が付きません。
先生は私に息をつく間を与えません。
「あれは神谷内くんへの出題だったのだろう? なら俺も君に出題しようかな。神谷内くんについて。彼女は君と違って、自分で自分のことを出題できないだろうからね」
私は黙ってしまいます。
「そうだね。神谷内くんのことだろう、君が俺に電話をしてきたのは。でもそれじゃダメなんだよ。俺に答えを教えてもらうというのは、なんというか、占い師に俺の連絡先を教えてもらうのとは質的に異なる。お膳立てされたものであったとしても、自分自身で、直接答えにアクセスする必要があるんだ」
私から電話をしたというのに、一方的に先生がしゃべります。私は黙ります。勝てない相手には、黙るに限ります。
「君が心配しているとおりだ。神谷内香織は問題を抱えている。ならその問題とは何だ。彼女は何を恐れている。どうして自分自身に執着する。それを君は知らなければいけない」
「……先生」
「うん?」
「先生は、それに、その問題というのに、関与したことがあるのですか」
「ある」
「それはいつですか」
「彼女がまだ中学生の頃だ」
「何をしたんですか」
「問題を解決しようとした。あまりうまくいかなかったね」
「狼になるのを人に見られないようにさせたのも、先生ですか」
「そういうことを、確かに言ったね」
私はそれだけ確認しました。それ以上のことは、ダメでした。ルール違反なんだろうと、思ったからです。
「俺もすぐに日本に帰るつもりだ。その前に、君には自分で彼女のことを理解しておいてほしい。出題とか、偉そうなことを言ったけれど、いや本当に、これはお願いだよ」
そう言って先生は、付け足しました。
神谷内くんのことを知ってあげてほしい、と。
彼女にはきっと、理解者が必要だ、と。
問題
3.神谷内香織は問題を抱えている。ならその問題とは何だ。
そうなのです。
私は結局、香織のことが知りたかったはずなのに、それを見て見ぬふりをして、彼女に化けて外を出歩き、何かが変わることをただ待っていました。きっとそれが、そんな卑怯なやり方が、香織を怒らせてしまったのです。
私はこれを、見て見ぬふりをしていたこの問題を、自分で解いてやろうと、そう思いました。
そして、その答えを持って、香織に謝りにいくのです。