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香織が出て行ってからしばらくたちました。私は香織が眠っていた布団を洗濯しました。自分に対する罰のようなものだったのかもしれないと思います。いや、なんかよくわかりませんが。
あの冷たい目は、冷たい声は、やっぱり怒っていたのだと思います。
私はまずいことをしてしまったのでしょうか。
してしまったのでしょうね。
香織に化けるということで、香織を知ったような気持ちになって、けれどもその実、私は彼女のことはずっと何にも知らなかったのでした。
あれ、順番がおかしいですね……。
本当は、香織のことが知りたくて、けれど知ることができないから、余計に知りたくなったのでした。彼女は、何を考えているのかわからないところがあります。心の奥底がどうなっているのか、わからないところがあります。普通の人よりも、おそらくは、血筋の関係で、人の中身が見えやすい私にも、彼女は見えません。だから知りたくなった。
だから……だから、目的と手段がぐるぐると回っていて、そのうちに私は香織を怒らせてしまったようです。
母はまだ帰ってきません。母なら全部、何もかも本当に全部、見えてしまうのでしょうか。
さっきの母と香織との間の会話を思い出します。
獣の姿で外を出歩いたことがあるか、と問われた彼女は答えました。
「僕は……ありません。獣の姿になる時は、自分一人の場所で、安全を確保するように、言われました」
「そうじゃろう、それが半人半獣としての賢明な習慣じゃ。おぬしも境界を行き来するモノじゃからな。境界を超える瞬間というのは無防備じゃ。特に気をつけねばなるまい」
母は満足気ににんまりとしました。まあ、大体いつもそんな表情ですが。そういう人なので。
「ところでおぬし」
「いや、だからおぬしってさすがに」
「誰に、そう言われた?」
香織は答えませんでしたが、その時の彼女の視線の動きは、私が想像を巡らすのに十分な材料でした。
母によれば、彼女は『狩人』とやらに命を狙われているそうです。いろいろなことが同時に起きたせいで、私は少し混乱しています。けれど多分、香織が命を狙われているということは、きっと客観的には一大事のように思われます。
「お母さん」
眠ってしまった香織を見届けて、家を出ていこうとする母に私は問いました。
「香織は、誰に狙われているのですか。狩人って、何ですか」
「獣を追うものは狩人じゃ。狩人だから獣を追っているわけじゃあない」
「そういうことじゃなく」
私は自分の口から出た言葉の響きが、自分で思っていた以上にきつくなってしまったことに驚きました。
「……ふふ、そうじゃな、ふざけている場合ではなかったか」
母は金色の瞳を揺らして笑い、私はなんだか恥ずかしくなりました。
「しかし正直、今回は儂も直接姿を見たわけではないからのう。可能性が多すぎてなんとも言えぬ。かと言って、探すわけにもいくまい」
「けれど、一体その狩人というのは、何のために香織を」
「手がかりがあるとすればそこじゃな。問うべきは狩人が何者かではない。この狼娘が何者かじゃろう」
私は香織を見下ろしました。静かに寝息を立てる彼女から、今は獣の臭いはしません。
「知らんのか? 友達なのに」
母がからかうように言います。
知らないから、友達なんです。
そうして私たちはすこし話をしました。
「私は……私には、香織のことはよくわからないのです」
私は言いました。
「時々、彼女が何を考えているのか、わかりません。そのせいで、昨日も、さっきも、香織を怒らせてしまった」
「まあ、怒らせたというか……」
母がニヤニヤしながら言いました。
「燈花、お前は儂ほどに人の心が見通せるわけではないのじゃがな」
そうです。当然、血が半分なわけですから。
「しかし、お前、他人が理解できなかった時に、血のせいにするのは、違うぞ」
「え」
「なんであの狼娘が怒っていたのか、分からない理由を、血の不完全さに求めているとすれば、それは滑稽じゃ」
フヒッと母は笑いました。やめてほしい。
さすがにこの人は、人が言われたくないことを一番よくわかっている。人が一番言われたくないことを、人が一番言ってしまいたいことを、知っている人。
「あれはな、正直、友達が何のアピールかよくわからないけれど自分に変身して変装してまで言い寄ってきたことへの――」
「そ、それ以上良くない」
「――ドン引きじゃよ」
私はがっくりと膝をつきました。
床に落ちていた冷えピタ、じゃなかった、無が、気持ち悪く膝にくっつきました。