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梅雨が来る前に夏が来てしまったかのような暑い日でした。
あまり暑いのは彼女にも良くないでしょう。私は冷房をつけました。
彼女は今、人間の顔をして横たわっています。包帯を先ほど変えた時には、もう肩の傷はほとんど治っていました。狼であるときに負った傷は、すぐに治ってしまうものなのかもしれません。傷は境界をまたがない、母はそんなことを言っていました。
私は彼女の額に貼った冷えピタの具合を確かめます。そろそろ取り替えたほうがいいでしょうか。
綺麗な顔です。化粧っ気のない、整った目鼻立ちと顔の輪郭。これだけ短い髪型が似合うのは、顔そのものが十分に綺麗だからだな、と私は思います。私は怖くてこんなに短くすることは出来ません。この短い前髪では、世界が見えすぎてしまうのではないでしょうか。
その綺麗な顔が微かに動きます。
「起きましたか」
「……燈花?」
「はい」
「ここは」
「私の家です」
「……」
香織はまだ意識がはっきりしてはいないようです。
「香織」
「うん……?」
「昨日は激しかったですね」
「え」
香織がガバっと布団を持ち上げて自分の身体を確認しています。確認……何を……。
「あ」
「香織?」
「あああっ!」
跡は残さないようにしたので、何も発見されないと思うのですが。
「燈花! 僕、僕は君を……!」
「ああ、そっちですか」
「え、他にどっちが」
「まあ、それはいいです」
「よくな」
「事情を説明しましょう」
私は昨夜について語りました。
あの夜。
満月の夜。
私が、香織に化けた私が香織を呼び出した夜。
獣化した彼女に私はもう少しのところで襲われるところでした。しかし、あの僅かな間に、多くのことがほとんど同時に起こりました。
まずは香織が肩を撃たれました。どこからか響いた銃声と共に、彼女の肩は弾丸に貫かれ、衝撃で香織はもんどり打って倒れました。
一瞬遅れて、母が現れました。母は苦しむ香織を素早く眠らせて、周囲に煙幕を張りました。私にはそこまでのことは出来ません。どうも、これは血の比率の問題のようです。母は公園の木の影で香織を軽く止血し、そのあと私と母は香織を家に運びました。
「え……僕をどうやって運んだの」
「私と母で運びました」
「どうやって?」
「南北線と目黒線で」
「その時の僕の身体は?」
「まだ狼でした」
「南北線と目黒線で?」
「白金高輪で乗り換えました」
香織は頭を抱えました。
「まあ、母が一緒でしたので、大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ……」
「いえ、母は私よりもより本物ですから。『アシキ』ですし」
「猟友会のおじさんにでも化けてたの? いや、それでも手負いの狼は地下鉄に乗れないと思うんだけど……」
「香織は妖狐の力を甘く見てますよ。化けるんじゃありません。化かすんです。終電近くでサラリーマンの皆様は疲れていますし、ケージに入れた小型犬を運んでいるようにしか見えなかったのです」
それでも少し変かもしれませんが。終電近くの南北線と目黒線でケージに小型犬を入れて運んでいる女性二人というのは。
「痛みますか」
香織は包帯を巻かれた肩に反対の手をやります。
「ん……たいしたことないかな。多分すぐ治るよ、これ」
「普通の痛み止めですけど、飲んでおいてください」
枕元に置いておいた錠剤を彼女に渡す。
「ありがとう……それより、いくつか質問していい」
「ええ。香織が寝ている間に私が何をしたか以外なら、なんでも質問してください」
「僕が寝ている間に何をした」
「何のことでしょう」
私は携帯電話を握りました。香織を着替えさせるときについたくさん写真を撮ってしまいましたが、まあバレません。
「とぼけるな」
「もう一度して欲しいですか?」
「やめろ」
「考えておきます」
「で。お母さんを呼んだって、どうやって?」
「これです」
私は懐から防犯ブザーを取り出しました。
「防犯ブザー?」
「はい」
「女子小学生か」
ピンク色のかわいらしいやつだった。
「いやいやこのアイテム、見た目は防犯ブザーにしか見えませんが、実際のところ防犯ブザーです」
「防犯ブザーじゃねえか」
「最近は物騒ですから」
「女子大生が持っていると逆にあれな方向に物騒な感じがするよね」
「わるい狼にいつ襲われるとも限りませんから、持たされているのです」
「う」
「羊の顔していても心の中は」
「すみませんでした」
「わかればいいんですよ」
「それで」
「はい」
「もう一つ聞くけれど」
「はい」
「僕を撃ったのは誰」
「それは」
私は言い淀みました。
言い方を間違えれば、彼女を余計に刺激してしまったり、余計に怖がらせてしまったりするかも知れず、私には準備をする時間が少しだけ必要でした。
「その質問には」
けれど、その必要は強制的に無くなってしまうようです。
「儂が答えよう」
音もなくいつの間にか部屋に入ってきていたのは、私よりも背の一回り小さな『女の子』。
金色の長髪に幾筋か純白の束が混じる、本来ならば異様そのものとしか言えない色彩。
肌は白く、瞳は黄金。
その二色で塗り分けられた世界。
「え」
香織が驚いて声を上げました。当然です。
「部屋にはいるときはノックしてって、言ってるじゃないですか、お母さん」
「お母さん!?」
香織が驚いて叫びました。当然です。
母は普段から十歳くらいにしか見えません。実年齢はけっこう上です。少なくとも同年代の人の両親よりも(つまり、たとえば香織のお母さんなんかよりも)ずいぶん上であるはずです。
「ああ」
お母さんが頷いて言います。
「稲荷木二色。燈花の母じゃ」
「母です」
「いつも娘が世話になっとるようじゃの」
「いやいやいやいやいや」
香織は全力で手をパタパタしました。
「女子小学生か」
「見た目は女子小学生にしか見えませんが、実際のところ女子小学生です」
「女子小学生じゃねえか」
「女子小学生ではない」
女子小学生ではありませんでした。
「小学校は出ておらんの」
さすがの香織も固まっています。
「神谷内香織、と言ったな。おぬし、獣の姿で外を出歩いたことはあるか」
母はニヤニヤと笑みを浮かべて、問います。
「おぬし?」
「おそらくほとんど無い、じゃろうな」
「え、流すの? おぬしでいくの? のじゃなの?」
「おぬしを撃ったのはな、十中八九、狩人じゃよ」
香織はその単語に顔をしかめました。