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もふもふだった。
艶のある黄金色の豊かな毛並み。太くて柔らかい毛が海のように広がって、先端が純白に輝いている。今日見えているのは三本だ。なんでも、コンディションによって何本出るか変わるらしい。九本全部出たことはないとか。そっと手を回して、三本を順々に撫でていく。三本まとめると、ちょうどよい抱きまくらくらいの太さだ。ぎゅっと抱きしめてみると、尻尾の根本が身を捩るようにくねる。
「ちょっと」
「え?」
「触っていいとは言いましたが、抱きしめていいとは言ってません」
「じゃあダメ?」
「まあ……少しだけなら……」
燈花の顔が赤い。もとの肌が白いから、本当に真っ赤になる。伏せた目がせわしなく動いている。それが、肉食獣としての僕の嗜虐心を煽る。
「えい」
「わっ」
僕の顔が埋まる。燈花を押し倒した先に、彼女の尻尾がクッションになっている。顔を埋めると、とっても温かい。もふもふ。
「な、何を」
毛が柔らかくちくちくと頬を撫でる。息を吸い込むと、いいにおいが頭のなかまで入ってくる。
「なんか、おひさまのにおいがするね」
「いやあの、嗅がないでください」
燈花が恥ずかしそうに身を捩るけれど、僕はもふもふを離さない。横から燈花の身体を抱くようにして、左手は腰に回して、その上で尻尾を撫でる。
「僕は燈花のにおい好きだよ」
「へ、変態ですか」
「そうかもしれない」
「この変態、開きなおりやがひっ」
尻尾の根本の所を撫でてやると、燈花は変な声を出した。
「え、なんて?」
「ぅぁ……」
尻尾が大きいから、ただでさえ燈花のパジャマのズボンはずり下がっていて、お尻が半分見えているのだけれど、そのお尻に近い尻尾の付け根や、枝分かれしている股の所に指を這わせると、燈花はぶるぶると身体を震わせた。
「ん、香織……それダメ……ホントに」
初めは恥ずかしさとくすぐったさだけだったのだろうけど、いつの間にかその声に甘いものが混じり始めた。ホントにダメだったらいくらでも逃げようはあるはずだけど、燈花は僕の腕を握る手に力を込めるだけだ。
「なにがダメなの?」
僕はもうちょっと燈花をいじめてみる。顔をもふもふさせながら、手で尻尾を弄ぶ。
「ゔゔ……意地悪すると、怒りますよ……」
「あー怖い怖い、最後までちゃんと言えてたらもっと怖かっうひあぁ!」
衝撃が背中を駆け抜けた。
何が起こったのかわからない。
身体に電気が流れたみたいに、腰がのけぞる。
「うえ、な」
一瞬遅れて何が起こったのか把握する。
燈花が僕の尻尾の根本をぎゅっと掴んでいる。
その目が妖しく光った。
「なんですか、これ。香織のお尻から、何か生えてるんですが」
それは僕の尻尾です。
狼の。
「え、何でこれ生えうぎっ」
「最後までちゃんと言えてたらもっと怖かったですね」
「別に元々こわぅぅぅ」
燈花が僕の灰色の尻尾をぎゅっぎゅっと握る。握られるたびに僕の身体は跳ねる。
「まだお昼なのにこんなの生やしちゃって、どうしたんですか?」
反撃しようにも、尻尾をぐりぐりと握られると動けない。得体のしれない感覚が身体のそこでぐるぐる回って、込み上げてくる。何で夜でもないのに僕の尻尾は生えているのか。分からない。考えられない。
「ぶらぶら揺れてたのを捕まえたら引っ込むかと思ったんですけど、全然ですね。むしろこの子、すごく元気に暴れてるんですが」
僕の狼の尻尾は、燈花の妖狐の尻尾なんかよりも細くて、芯のあるやつなのだけれど、だから燈花の手でぎゅっと握れるくらいの太さなのだけれど、その分それを掴まれると、逃れられないし、身動きも取れないし、変な声しか出ないし、
「これが官能小説だったら、『香織の声には甘いものが混じり始めた』とか書かれるところですね」
完全に立場が逆転していた。しかもさっきの僕の心内語が官能小説呼ばわりされている。心外である。燈花が僕の尻尾をぎゅむぎゅむと握りこむ。時折尻尾を引っ張るみたいに撫で上げる。全身の毛が逆立ちそうだ。
「香織、これ、やって欲しかったんでしょう。だから私の尻尾で遊んだんですよね。仕返しさせるために」
燈花の顔がすぐ目の前にあって、けれど僕は顔が熱くてそれをまともに見ることは出来なくて、
「そんなこふぁ、ん」
「いいんですよ。これくらいなら協力してあげます。ややこしい性癖を持ってると大変ですね」
「ひっ、ふぁっ」
燈花が僕の尻尾をリズミカルに握る。頭がカッと熱くなって、すぐにぼうっとして、わけがわからなくなってきて、何かが迫ってきて、
「あ、こっちも出てますね」
そう言って燈花が顔を持ち上げる。え、と思った次の瞬間。
「んんっぁぁ」
脳味噌を内側からなぞられたようなぞわぞわする衝撃。
「耳も出ちゃってますよ、狼さん」
僕の頭に生えた狼の耳に、燈花の息がかかる。
「ふーってされるのも、好きなんですか。やっぱり変態さんですね」
もう一回、ふーっ、が来る。尻尾を掴まれ、耳に息を吹きかけられているだけなのに、全身を無数の手で撫で回されているような感覚。
「この耳、美味しそうですね」
燈花が僕の狼の耳を唇で弄ぶ。
「ちょっとコリコリしてて」
僕はもう言語になっていない声しか出せない。尻尾を揉みほぐすように握られる。握るのが強くなって、
「知ってますか。妖狐に噛まれると、魂が抜かれてしまうんです」
そんなの知らないぞ。
「ローカルルールです」
ローカルルールだった。
「私もやったことないですが、せっかくなので、香織の魂をここから抜いてあげます」
意識がいっぱいになっていく。よくわからないものでいっぱいになっていく。燈花が僕の耳元で囁く言葉が、脳に直接入ってくる感じ。
「まあ、妖狐的なやつはわかりませんけど、ある意味香織の魂はそれで十分抜けそうですし」
はぁぁ、と僕の耳に覆いかぶさるように燈花の口が開くのが分かる。尻尾がぎゅうぅぅ、と掴まれる。
かぷり。
「ーーッ!」
跳ね起きるとカメラと目が合った。
絶望の朝。
時計を見ると十一時半だった。
昼だった。
絶望の昼。
僕は、夜間自己監視用のカメラのメモリーを削除した。
トーストを焼いてバターを塗り、目玉焼きを作ってケチャップをかけて、ゆっくりとそれを食べた。
じっくりと豆を引いて、濃い目に淹れたコーヒーに、砂糖とミルクをたっぷり入れて、ちびちびと飲んだ。
お皿を洗って、全てを片付けると、もう一度ベッドに潜り込んで、「死にたい……」と言った。少し泣いた。
あと一ヶ月くらいは引きこもらないとな、と思った。