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夜なのでバスはない。自転車を徴発した。陰陽師はかっこいいからこれくらい余裕なのだ。山道を全力で漕いで、息も絶え絶えたどり着いた岩の前。
「また来たのか」
女の声は少し疲れたように聞こえる。
「ああ」
「何をしに来た」
「こんどこそ御札を剥がしに来た」
「ああん?」
僕は父の荷物から拝借した扇子を取り出し、大岩の前で構えた。
息を吸い、腹に力を貯める。頭の中で真言を唱え、口の中で真言を唱え、最後に大声で真言を叫ぶ。扇子を持ち上げると同時に、大岩がバリバリと啼きながら持ち上がり、神社跡の瓦礫の上に沈んで、凄まじい砂埃を撒き散らした。
「加減と言うものがわからんのか、たわけ」
苦しそうにコンコン咳き込む妖狐は、今度は女の姿をしていた。
というか、砂埃の向こうから浮き上がったそれは、娘の姿をしていた。
「……お前、随分小さいな」
昼前に垣間見た人間の姿は、大人の女だったが、いまでは小学生くらいにしか見えない。服も着ていない。それが脳天に青白く輝く御札を載せて、地面に跪いているのだから、結構あれな光景ではある。やはり金と白の二色、異様にふさふさと豊かな髪と、風もないのに揺れている尻尾は相変わらず狐らしいが。
「はん、省エネじゃ」
「省エネ」
「体重を軽くしとったほうが、この姿勢も少しはましじゃからな」
いや、幼女になったことにより際どさは増している気がするが。
「それよりおぬし、この札、剥がすのか?」
あどけない顔の中に、怪しく光る両目が、この幼女がただの人間ではないことを告げている。
「剥がすにゃ」
「……おぬしの皮膚を全部剥がす」
「皮膚を全部剥がすのは良くない」
「剥がす。百万回剥がす。べろんべろんにしてやる」
猟奇的だ。
「取引だ、狐」
「ああん」
「僕の言う通りに化けてくれ。その後はなんでも、好きにしていい。また悪さをしても良いし、本当にその気なら僕の皮膚を剥がしに来てもいいさ。黙って剥がされるつもりはないけれど」
「ほう……えらく都合のいい話じゃな。儂を改心させるのは諦めたか」
「僕は陰陽師をやめるんだ。私利私欲で妖怪を改心させようなんてもう思わないさ」
「はん、良い心がけじゃな」
狐は尻尾を振った。
うん。
狐は尻尾を振った。
……うん。
こういうの、僕はなんというか、結構、こう、尻尾の根本の人間の皮膚とのつなぎ目というか生え方というか、あのゾーンが気になってしまうタイプだ。
気になってしまう。
カタカナ三文字で言うとフェチ。
漢字三文字で言うと脆弱性。
「ん、おぬしこれが気になるか」
狐は尻尾をゆさゆさと振った。
「いや、全く気にならないな、続けてくれて大丈夫だ」
「ガン見しておいてよう言うわ」
「根本どうなってんのそれ」
「どうもこうも、生えておるだけじゃ」
「いや、ほら、ここ」
「ちょ、自然な流れを装って触るでない! 本当に皮を剥ぐぞ!」
装えていなかった。生え際はぷにぷにしていた。
「おぬし……ただの軟弱真面目陰陽師かと思っていたら、軟弱でも真面目でも陰陽師でもないと来れば、なんじゃ、何者なのじゃ」
「稲屋燈眞」
「名前のことではない。本性の話じゃ。おぬし今急に頭が回り始めたじゃろう。儂は見れば人間が何を考えているかわかるぞ。『あれ? これって、御札剥がさない限りこいつ動けないんだよな……』みたいなことを考えておるな!」
「やはり真言の効験で能力も落ちているようだな。それを考えたのは岩をどけてすぐだ」
「殺す」
「殺すのはよくない」
「皮膚を全部剥がして殺す」
僕はだんだん愉快になってきた。
あまり良くない思い上がりであることは自覚していたが、少なくとも半分は怪異である妖狐と、こうして言葉を交わすことができると言うのは、突然に素晴らしいことのように思えてきたのだった。
「だが要するに、楽になりたいだけの話じゃろ」
「……ん」
「札を剥がす話じゃ。儂がそのあと何をするかは知らん、ただ自分が、貼った御札を剥がすだけ。プラスマイナスゼロ、というわけじゃな。無責任な」
そう言われてみれば、卑劣なような感じもする。
「それではいかんじゃろうなぁ、陰陽師以前に人としてどうじゃ。まして取引などと、おこがましいわい」
「…………」
「そこで、じゃ」
幼女がニタリと笑った。中に入っているのが、幼い人間では絶対にないことが伺える妖しい笑みだった。
「儂からも条件がある、と言ったら?」
「まさか……尻尾もふもふ権一年分を提示するつもりか」
「皮膚を全部剥がした後に心臓を取り出してもふもふしてやろうか」
「心臓もふもふは良くない」
「もういいわい、条件は後で言おう。後で言うんじゃから条件ではないな。ただの要望じゃ」
「うん、なんだ、急に歯切れが悪いじゃないか」
「ふん、もういいから剥がせ」
そうして妖狐は黙った。
「あ、でももう一つ」
僕は幼女の頭に乗った札に手をかけて言った。
「名前を」
「名前?」
「名前を教えてくれ」
「なぜじゃ」
「名前がわかるものとは、友達になれる」
「はん、友達」
僕はぞくりとした。再びあの、麻薬のような快楽が背中をかける。
「舐められたものじゃの」
そう言いながら、妖狐は名前を教えてくれた。
素敵な名前だった。