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「怖気づいたか」
山道を下りながら、稲屋燈玄は言った。
「次は俺がやれと言ったら、すぐにそうしろ」
父はそう言うきり、いつもの説教はしなかった。
「……父さん」
「なんだ」
「あの妖狐は、何をやったの」
「何、って」
「どんな悪さをしたの」
「ああ」
燈玄は語った。
「化けるのだ」
「化ける」
語り始めると職業陰陽師の口調になった。職業陰陽師って流石になんだよ。
「ともかく化けるのがうまいそうだ。内側まで含めて。物陰から一目見れば、姿の見分けがつかぬほど化けられる。二歩歩くのを見れば、動きまで余すところなく写し取る。三言喋るのを聞けば、物言いから頭のなかまで真似られて、誰にも区別が付けられなくなってしまう」
「それだけ?」
「化けてやることがすべて嫌がらせなのだ。物の怪は不和を嗅ぎつける。たとえば夫婦の片方に化けて、もう片方にとんでもないことを言うのだ。それを言ってしまえば、関係が完全に破綻してしまうような、決定的な罵詈雑言をな。わかるだろう、そういうの」
「それで、本人を殺して成り代わるとか」
「いや、そういうことではない。本人が家に帰ってきたらそれで終わりだ」
「そんなの、バレてすぐ終わるんじゃ」
「そうはならない」
「なんで」
「その嫌がらせが、その罵倒が、化けられていた本人の本心に違いないからだ。たとえ言ったのが自分でなくても、自分が思っていたことを言われているのだ。本人でも言ったかもしれない、いや必ず言ったであろう言葉なのだ。それが妖狐のせいだとわかっても、夫婦の関係はすでに崩壊したあとよ」
わかるような、わからないような気がした。
僕の両親も離縁しているが、例えばそれが決定的となった言い争いがあったとして(そういうのがあったのかどうか、よく覚えてはいないのだけれど。僕が十歳の頃だ)、その時にひどい言葉を吐いた父親は、実は妖狐の化けたものだった、として。それで母が帰ってくることにはならないだろう。そう考えると、そういうもののようにも思えた。
「夫婦や恋人に限らん。親子の絆、兄弟友人の絆、生活上、仕事上の繋がり、そういうものの綻びを嗅ぎつけては、化けて出て、それをぶち壊す。言い逃れはできないのだ。たとえ自分でない、偽の自分が言ったことでも、自分の本心であることに、自分が一番気づいている。それがあの妖狐のやってきたことだそうだ。最近一層激しくなって、村はたいそう荒れたと」
さっきから心のなかでもやもやしているものが、余計にもやもやしたように感じた。
じゃあ、妖狐が来なければ二人の縁は切れなかったのか? すでに限界まで綻んでいた縁は、その後も無事でいられたのだろうか。
言い換えれば。
その縁が切れたのは、誰のせいだ。
道なき道を降りると、県道に出た。来たときは村の車で送ってもらったが、帰りは時間も読めないのでバスで帰るということになっている。少し歩いたところにバス停があり、一時間に一本走っているそうだ。大都会だ。
「戻ったら夕方だ、宴会もあるだろう」
仕事を終えると宴会を催してくれるらしい。いままで父の仕事が毎回泊まりなのはそんなに大変なのかと思っていたが、蓋を開けてみればそんなことだった。
もやもやした気持ちが、綻びが、広がっていくような気がした。
宴会に行く気分じゃなかった。
「あ」
「どうした」
「落とした」
「何を」
「家の鍵」
「はあ?」
「御札出したときに、一緒に落とした。取ってくる!」
「アホかお前は」
「先、戻ってて!」
降りた山道を駆け上る。