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父、稲屋燈玄は職業陰陽師である。職業陰陽師ってなんだよ。趣味の陰陽師とかもあるのか。よくわからない。今日は、妖狐を退治するのだという。さっきの村から請け負った仕事だ。仕事に僕がついていくことを許されたのは今日が初めて。父に渡された護符を握る手が汗ばむ。心を落ち着けようと、真言を口の中で唱えようとしたが、うまく舌が回らない。
荒れ果てた神社跡が、正確にはその裏の洞穴が、その妖狐のねぐらだという。神社跡、といっても、そこは本当に跡である。痕跡である。朽ち果てた鳥居の残骸がなければ、神社があったことすらわからない。かつて本殿があったであろう場所は、瓦礫の山があるばかりである。ただならぬ空気に僕は身震いした。
神社跡が背にしている切り立った岩壁に、洞穴がある。
「この中だろう」
僕はゴクリとつばを飲んだ。洞穴からはかすかに冷たい風が吹いてくる。中は闇に覆われている。
父は落ち着いていた。堂々と洞穴の前に立ち、袖を振り大音声を上げる。
「半人半妖、二色の毛を持つ妖狐アシキよ、ここに潜んでいることはわかっておる。姿を見せよ!」
ちなみに普段はそんな喋り方はしない。服も普段はポロシャツとかである。
口上が終わるか終わらないかのうちに、どうと風が吹き荒れたかと思うと、洞穴の薄闇の向こうに、それは立っていた。闇の中にその全身は輝いていた。黄金と純白の二色に塗り分けられた身体は、ちょうど僕ほどの背丈があった。ザワザワと音を立てる尻尾の数は九つ。氷のような瞳の妖しい光に射すくめられ、全身が震えた。
その目が。瞳が。
僕を見た。
絶世の美女に一目惚れすることを、電撃が走ったとか表現するけれど、妖怪と、怪異と、物の怪と、妖獣と出会ってしまったときにも、それと目があってしまったときにも、同じ表現は使えるのだ。そう僕は思った。僕はその刹那に、これまでの生と同じだけ絶望し、これからの死と同じだけ恍惚とした。
尋常ならざるもの。僕達人間とは、違う世界に生きるもの。異様なもの。おかしなもの。説明がつかないもの。人知を超えた存在。非日常にして非常識。幻怪異形。妖異魍魎。そんな存在に僕がこれまで全く触れてこなかったのかといえば、そんなことはないが、しかし退治の対象となるような強大な存在に対峙するのは、これが初めてだった。僕はそれこそ、一顧傾城に魅せられたが如く、その圧倒的な存在感に打たれてしまった。いや、認めよう。ある意味でこれは喩えではない。僕はある意味で、この存在感に、比喩でなく、一目惚れしてしまったと言っていい。それに圧倒され、自らの常識的な矮小さを自覚することで、しかしむしろ生を実感できる、そういう恋愛と同じ種類の麻薬を、僕は飲んでしまったのかも知れなかった。
「儂に客人とは珍しいの」
妖狐は口を開けずにそう言った。その声は美しかった。女の声だった。だが、歓迎の響きは全くなかった。憎悪がありありと漂っていた。頭の先から足の爪先まで、いっぺんに氷水を浴びたように感じた。べっとりと、流れ落ちることのない、氷水だった。
本来なら、陰陽師たるもの、たとえ相手が妖し物の怪であっても名乗りくらいはするものである。
小さい頃、僕は母からこう言われた。人にあったら名を名乗りなさい。相手と親密になりたいのなら、相手の名も必ず聞きなさい。名前を知るもの同士は、友達になれるから。
だが。父は全部省略した。
「◆」
決して大きな声ではないが、決然と放たれた真言の効果は瞬く間に現れた。妖狐は目を見開き、苦しげに震えたかと思うと、父に飛びかかる。
「◆◆◆◆◆◆◆」
父は口元を歪ませながら真言を刻みこむ。職業陰陽師・稲屋燈玄の首筋に牙を突き立てようとした妖狐は、その寸前で見えない壁に阻まれたが如く倒れ、叫び声を上げる。
「妖し狐よ、貴様、人間に化けて村を荒らしているとのこと、許された行いではない」
妖狐は絶叫した。
咆哮。
苦悶。
嗚咽。
僕はそれを見て、哀れだと思った。
可哀想だと思った。
瞬間、自分のその感覚に驚愕した。
「その真の姿、現すが良い」
父が宣言する。
「貼れ」
父が僕に合図する。震える手で護符を握った。御札である。模様として描かれた真言が刻まれている。
「早くしろ」
父親に急かされ、顔を引きつらせながら、護符をかざした。
地面に倒れ伏し、のたうち回る妖狐は、背を丸めて苦しんでいながらにして、それでもなお、熊くらいの大きさがある。巨体に反して、本来ならするであろう獣のにおいがしない。
「早く貼れ」
怒気を含んだ父親の声に背中を蹴飛ばされ、護符を妖狐の頭に貼った。落とした、といったほうが適切かもしれない。赤い線が目玉を思わせる模様を描いた、護符。御札。
その効験は明らかだった。
獣の目は大きく見開かれ、この世ならぬ場所を見つめていた。もがく動きは止まり、絶叫の声は遠ざかり、すすり泣くようなうめきに変わった。輝いていたはずの金色の毛が色を失い、妖狐の輪郭はあやふやになり、明滅した。
「ふむ」
父は目を細めて言う。
「この護符は、化け物の変化を解き、真の姿を明らかにさせる技……それが効かぬのを見れば、こやつ、真の姿が定まらぬらしい」
妖狐は一瞬、人間くらいの小さな身体になりかけたかと思えば、再び巨大な狐の姿で燃え上がる。直視できない。
「まあよい」
父が、一歩下がり、拳に気を込め、岩肌を殴りつけた。とたん、轟音とともに洞窟が崩れ、目を開けたときには、洞穴は塞がっている。
岩の向こうから、むせび泣く女の声だけが聞こえる。
「そこで自らの真の姿について考えよ、それを識った時、本来の仏心に会えるであろう」
そう言って、一丁上がりとばかりに手を打った。
僕は、震えと戦っていた。
再び、妖狐を哀れに思った。
化物に対して、物の怪に対して、異形に対して、怪異に対して。圧倒的な、超自然的な存在に対して。自分がそんな感情を抱くとは、思ってもいなかったのだ。