20
アパートから徒歩一分の公園。それが、彼女の指定した場所だった。本当にすぐ近くだ。いくらすぐ近くであっても今夜外に出るのはものすごく怖かった。それでも僕は、そこに自分がいるということに我慢がならなかった。
一目見て確認する必要がある。
「夜遅くにごめんなさい」
ベンチに腰掛けていた神谷内香織は僕を見て立ち上がり、言った。それは紛れも無く神谷内香織らしい神谷内香織だった。ただ、この満月の夜には、本物よりも出来過ぎていた。
「話って何? こんな夜中に」
僕は荒い息で言った。
「具合、悪いの?」
神谷内香織は心配そうな顔をした。
その瞬間、僕の中で一気に何かが冷めていった。
馬鹿め。
「……それではっきりしたよ。お前は偽物だ。中身までコピーできていない」
僕は大袈裟にため息を付いた。偽物の表情からは何も読み取れない。
「化けるっていうのは、その時の体調までコピーするわけではないよ。体調悪く見せようと思えば、そう見せることはできるけれど」
「違う。君は神谷内香織のことがわかっていない。僕ほどには」
「君、ずいぶん自意識過剰だ」
偽物の神谷内香織はそう言った。
僕はポケットから錠剤を取り出して噛み砕きながら微笑んだ。そうだ。僕は自意識過剰だ。
「僕は自分が知りたい。知らなければならない。自分の罪は自分で背負いたい。あれはアシキでした、偽物でした、なんて都合の良い都市伝説で言い逃れしたくない。だから今すごく安心したんだ。君は僕じゃない。劣化コピーですらない。偽物以下の偽物だ。僕は君を知る必要すらない」
錠剤の苦味を感じない。舌のしびれを感じない。夜風にあたり、月の光に撫でられる皮膚が燃えるように熱い。皮膚が軋む。ダメだ、もう抑えきれない。一瞬恐怖を感じるけれど、すぐにそれが、興奮に取って代わられる。きっと後悔する。それすらも愛おしい。
「そこまで言われてしまうとは心外だなぁ。これでも『三言喋るのを聞けば、物言いから頭のなかまで』だ。神谷内香織を完全に体得したつもりなんだけれど。君がそんなにヤク中みたいになってるとは知らなかったけどさ。もしかしたらそのせいかな? 薬で人格が変わってしまった、とか」
僕は半分唸り声になりながら言う。
いいよ、もう。
言ってやる。
「『三言喋れば』は、それは君の母親の話だ。君には伝説の妖狐の血は四分の一しか流れちゃいない。君の変身はそれ自体が劣化コピーだ」
偽物はきょとんとして首を傾げた。
「さすがだ。そこまで分かってたんだ」
当たり前だ。僕は吠えそうになった。それに気付いてもらうための茶番劇だったはずだ。わからないほうがおかしい。
「その首を傾げるの、僕の友達の癖だよ」
偽物は首を傾けたままだ。
「その子は僕が君を目撃した二回とも、直後に僕の前に姿を表した。まえに両親はもともと××方面の出身だと言っていた。彼女が民話を収集してきたのは××県だ。みんなの前では父親の実家、としか言わなかった。けど、お父さんはお母さんと結婚するのを実家に反対されて、ひどく喧嘩して家を出た、とその子は僕に教えてくれた。半人半妖狐伝説の絶頂期を飾る事件として、『親子の仲違いが村全体を巻き込んで、息子が縁を切られて村を出るまでになった』と、資料に書いてあった。それが多分二十年くらい前の出没事件なのだろうけれど、そのことは不自然に資料にまとめられていない。僕はこの縁を切られた息子というのが、彼女の父親かもしれないと想像する。だから民話の収集に際しては、絶対に本名を名乗れない。騒動の当事者だからだ。では、母親は誰だろう?」
「これは本当にただの想像なんだよね。見方を変えてみる。そもそもなぜ彼女の問題意識は資料B群、現代に生きる都市伝説の方にあったのだろう。妖狐伝説そのものだって十分面白いのに、そしてその伝説が二十年ほど前に途切れているのだって十分検討の価値があるのに、彼女はそこを避けて、僕たちを都市伝説の方に誘導した。理由は単純なんじゃないだろうか。彼女はBのほうが気になった、それだけだ。なぜ気になるか。彼女はもう、その妖狐が村にいないことを知っているからだ。Aは終わった話だと知っているからだ。けれど、Bは違う。既に妖狐がいなくなった後も、伝説が生きている。改変されて子どもたちに語られている。なぜだろう、一体どういう機能があるのだろう。それが彼女の問題意識だったんじゃないかと思う。そう考えると自然だ。だから僕は彼女が、半妖狐のアシキを母親に持つ、妖狐のクオーターなんじゃないかと想像する」
「その上で、僕のドッペルゲンガー問題は、君が投げ込んだヒントだ。偽物がうろついている時に、本物は偽物の存在をどのように言い訳に利用できるのか、それに気づかせるための餌だ」
偽物は首をかしげたまま、問う。
「それだけで? 君にしては、なんとなく論理性にかける気がするよ」
「僕もそう思うよ。だからただの仮説なんだけれど、それにしてもあからさまだし、これしか信じられない。それに一つ、決定的な要素がある」
「なにかな」
「その子の大好物は油揚げだ」
神谷内香織の姿をした稲荷木燈花は、にこりと笑った。
「さすがですね、香織は」
稲荷木燈花はツクリモノの声で喋る。
「本当は周りの人たちに見られて、噂されるくらいに留めるつもりでした。あそこで香織本人に姿を見られるつもりはなかったのです。それでヒントを出したかった。それだけです。姿を直接見られてしまうと、さすがに香織はこっちの謎を解きに来てしまうだろうと思ったので。案の定そうなってしまったわけですね。昼間この姿を見てから気付いたのでしょう」
嘘だ。
はじめから僕に見せつけるつもりだったくせに。
「今日呼び出したのは、謝ろうと思ったのです。あの時、怖がらせてしまったようでしたから。その通りですよ。質の悪い偽物と言われてしまったのは悔しいですが、そうです、私は香織ではありません」
事故みたいな言い方をしている。
嘘だ。
君ははじめからそのつもりだった。
そうじゃなきゃ、僕に化ける理由なんてない。動機がない。
僕はイライラした。
もうとてつもなくイライラした。
錠剤を飲んでも飲んでも足りないくらいにイライラした。
叫んでもおかしくないくらいイライラした。
この子相手にこんなにイライラするなんて想像しなかったくらいイライラした。
今僕が並べ立てただけの理由で、彼女が狐だなんて気づけたもんじゃない。
そのことは燈花だってわかっているくせに。
物語には語られる理由がある。目的がある。
僕は他人の秘密に土足で立ち入るのを何より嫌う。『解いていいよ』と言われないと謎を解こうとしない。そのことをわかっているから彼女は、それをゼミの場で出題した。そうすれば僕が彼女の秘密に辿り着くだろう、辿り着いてくれるだろう、『解いて』くれるだろうと見込んでのことだ。
けれどそれだけではまだ足りない。
僕の興味の向く先を、彼女はもう一つ見抜いていた。
自分だ。
だから彼女は、僕になった。
そしてその姿を僕に見せた。
僕に解き明かしてもらうために。
そうして彼女は僕になおも甘える。僕にその行為を受け入れてもらえると期待している。僕が彼女の嘘を暴いて、問い詰めたりしないと思っている。ああ、しないよ。しないさ。そうでなければ殴り飛ばしている。いや、これからするかもしれない。もっと酷いかも。
ほとんど八つ当たりだとはどこかで分かっていた。でも頭が沸騰している。どうしてこんな、僕を試すようなやり方にしたんだ。普通に打ち明けずに。僕に変身して。普通に相談してくれれば、僕だってこんな身体だ。少なくとも話を聞くくらい出来たはずだ。なにしろ藤木先生のゼミだ。多少、人外がいたところで不思議はないだろう。驚きやしなかったさ。それをどうしてこんな。
僕は試されるのが大嫌いなんだ、と自覚した。
その嫌悪は、この回りくどい告白みたいなものを塗りつぶして余りある。
本当は、燈花が普通の人間ではない可能性を考えていたけれど、さすがにこんな茶番をやる意味がわからないと思っていた。そんな手間とかリスクとかかけて、僕に化けたりするだろうか、と思っていた。知らないふりをしていた。でもここまでやられたら無視はできない。そこまで韜晦を気取ってはいられない。それをわかっててやっているんだろう。僕がそうやって結局受け入れてくれる、それに期待しているんだろう。イライラする。本当に。
血が燃えている。背後に月が輝いているのがしっかりと分かる。偽物の僕の顔をキラキラと照らしている。偽物の僕は満足げだ。目論見通りうまくいったからだろう。見込みは正しかった。しかし。しかし彼女は日を間違えた。今日にすべきではなかった。全身がガクガクと震えだす。
知らなかったのだろう。そりゃそうだ。知るわけがない。
そもそもなぜ僕が、自分を知りたいと思っているのかを。
知らなければ怖いと思っているのかを。
なぜ毎晩寝る前に寝室のカメラを起動して、自分がベッドを抜け出していないことを確認しているのかを。
なぜ満月の夜にはありったけの道具で自分を拘束しているのかを。
なぜ藤木先生の研究に興味があるのかを。
そりゃそうだ。僕が彼女には伝えていないんだから。
僕が秘密にしているんだから。
知らなかったから、まさか僕がここまで自分がもう一人存在することに対して神経質になるとは思わなかったから、あの時あんな顔をしたのだ。僕と鉢合わせてしまった後のあの顔は、僕の精神状態をひどく悪化させてしまったことへの申し訳なさだ。偽名を使わないといけなかった、ということを軽率に言ってしまい、僕を混乱させた時と同じ顔。
馬鹿か。僕に化けるのはよくて、僕に心配させるのはダメなのか。どうかしている。
そして僕は、馬鹿な彼女が、少し妬ましかった。
妬ましかったのだ。
こんな馬鹿げたやり方にせよ、自分から秘密を開示できる彼女が。
僕とは違う馬鹿な彼女が。
「……香織?」
いつしか彼女は稲荷木燈花の姿に戻っている。その方がいい。彼女のふわふわしたロングヘアーには神谷内香織風の服装がおそろしく似合わない。しかし何にせよ、自分自身の姿をしたやつを襲うのはゴメンだ。いくら質の悪い偽物とはいえ。いくら、満月の夜の僕の本性をコピーしきれていなかった偽物とはいえ。僕は自分が何を考えているのかについて考えて慄然とする。全身が粟立ち、興奮で口の中に唾液が溢れてくる。
ううううう、と低く唸り声を上げる。目をつむって、拳を握りしめ、歯を食いしばり、声を絞り出す。
「ゲームの世界だと、妖狐っていうのは、噛めないって言うけれどさ」
背骨がガリガリと音を立てている。
僕の身長が伸び上がる。
身体が一回り大きくなって、焼けた皮膚にザワザワと灰色の毛が沸き立つ。
ぐいと顔を上げれば天の満月が飛び込んできて、顎が広がって牙が口の中を埋める。
狼は夜目が効く。鼻もいい。小さく悲鳴を上げて後退りする稲荷木燈花のにおいが分かる。月明かりに照らされた白い肌に牙を突き立てる数秒後を想像する。一歩一歩にじり寄る。稲荷木燈花が尻もちをつく。声にならない悲鳴が吐息になってその小さな口から漏れる。
君と僕、二人分の吐息が混じる。君からはもう、僕のにおいはしない。もっと甘いにおいがする。
「四分の三が人間だったら……」
噛めるだろうか。きっと噛める。僕は知っている。
狼が、狐に襲いかかる。
第一部 『神谷内香織は自分を知りたい』 完
■参考文献
文化人類学入門 祖父江孝男(著) 2011 中公新書
二つの手紙 芥川龍之介(著) 2014 青空文庫(底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫)