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いびつな階段を上り詰めてゼミ室に入ると、先輩二人が先に来ていた。三階まで階段を登るとじわりと汗が出てきていて、僕は上着を脱いだ。これは夏が思いやられるなぁ、と思う。
外観こそ文化財っぽいが中はただの老朽化物件であるところのこの建物は、夏暑く冬寒い。ゼミ室の冷房はもちろんついておらず、大きな扇風機がガタガタと震えながら首を振っていた。冷房のリモコンには、『単著の数だけボタン操作可能』と書いた紙が貼ってある。単著の数か。指を折って数えてみたところ、指が折れなかった。ゼロだった。僕は冷房を諦めた。
「おお? うーん?」
僕がカバンを置くか置かないかのうちに、みとはちさんが僕の前に立ちふさがり、全身を舐め回すように見つめる。
「おはようございます……あの、舐め回さないでください」
「舐め回してはいない」
「でも視線が」
「じゅるり」
舐め回していた。
背の低いみとはちさんが僕を見上げる。眼鏡の奥の瞳は、なにやら好奇心に満ちている。僕の格好がそんなに面白かっただろうか。
「香織っちは、一日に何度も着替えたりしないよね」
「え。そんなに何回もということはないですが」
「具体的には何回着替えるのかな?」
「えーっと……普通は朝と」
「着替えの手順を説明してもらっていいかな?」
「いえ」
「下着を脱ぐときは右足からかな?」
「あの」
みとはちさんが僕に迫るが、ちょっと距離が近すぎるので部屋の反対側から草苅さんがめっちゃ怖い目で見ている。命が危ない。殺すのはよくない。
みとはちさんはそこで言葉を切って僕から離れ、ソファに小さな身体を投げ出す。
ブゥウン……と、扇風機の首がこちらを向く。
生ぬるい風が僕の汗を冷やす。ボタンのところに『今まで食ったパンの枚数』と書いてある。扇風機は自由に使っていいらしい。
「……いやね、香織っちにものすごく似た人を見かけたんだよね」
僕の心臓が一拍跳ねる。彼女はさっきよりも幾分低い声で続ける。
「それはもう、ものすごく似ててさ。いや似てるっていうか、むしろ最初、香織っち本人だと思ったんだけど、なんか私を無視して行っちゃったし、それに今の服装と違うからさ。一応早着替えの可能性をさ」
「みとはちさん、そこは普通に、『さっき中央食堂にいた?』とか聞くべきなのでは」
「そう言われてみればそうだねぇ」
どうやらさっきのは、見間違いではなかったようだ。
「あれ、でもさ」
みとはちさんが身体を起こして言う。
「中央食堂って、言ったっけ?」
「……いえ? 僕がさっきまで中央食堂にいただけです」
僕はしらばっくれる。
「あそう? でも早着替えしてないんでしょ? じゃあやっぱ他人の空似で、しかもニアミスか」
「私はそんな人見たことないけどな」
言ったのはもう一人の先輩、草苅はるかさんだ。僕とみとはちさんとの距離が危険水域から脱したのでもう睨んではいない。ちなみにあの睨み機能は無意識らしいのではるかが悪いわけではない、愛ゆえに仕方ないことなのだ、はるかが悪いわけではないのだ、と、みとはちさんが言っていた。じゃあ悪いのは貴方だ。
「そんなに大きいキャンパスじゃないし、そこまで似てる人なら会ったことありそうなものだけどね」
「まぁそうなんだよねぇ。新入生かな」
新入生という可能性は、ある。
まだ五月。連休明け。
新入生たちが大学に毎日通う必要性の有無について認識を改め始める頃合い。やっと生協や食堂が少し空き始める季節。大学が大学らしい平常運行に戻る季節。
いや。
ありえない。
あれは似ているなんてもんではない。
他人の空似では説明をつけられない、と僕は思う。
「しかしまぁ、本当に似てたから、あれは」
「いるものなんですね。似てる人って」
ははは、と僕は笑ってごまかす。
どうして僕は、ほかならぬ僕自身がその人物を目撃したことを、先輩に伏せているのだろうか。
それはもちろん、見てはいけないモノを見た、という感覚に囚われているからだ。
あれは普通ではない。
普通ではないものに触れてしまった時のあの感覚。
胃が引き攣る感覚。
脳の内側がざらつく感覚。
彼女は普通ではない何かであり。
僕だ。
自分だ。
「そうだねえ。香織っちはちょっと気をつけないと」
「……気をつける、というのは」
みとはちさんはソファにだらしなくもたれかかったまま、眼鏡をくいと上げてこちらを見る。
「自分のドッペルゲンガーに出会うと、死ぬっていうからさ」
ブゥウン……と、扇風機が首を振る。
ガチャリ、と戸が音を立てて開く。
「遅くなりました」
長い髪をゆらゆらさせながら、稲荷木燈花がゼミ室に入ってきた。相変わらずの細い声に消えてしまいそうな透明感で、あの階段を踏破してきたとは思えない。本当に重量があるのだろうか。地面から五センチくらい浮いてないだろうか。絶対浮いていると思う。燈花の足元を見る。可愛いブーツだった。浮いていなかった。
「揃ったね」
草苅さんが立ち上がって言う。背が高くて背筋がピンと伸びている草苅さんが立ち上がると、なんとういか、涼し気なSEが鳴る気がするな、と思って、いやでも暑いけど、と僕は頭のなかで付け足した。もう冷や汗は引いている。
この自主ゼミのメンバーは、草苅さん、みとはちさん、燈花、そして僕の四人。
先輩二人が四年生、僕と燈花が三年生。
「今日のテーマは、えーと? ドッペルゲンガーだっけ?」
「……ドッペルゲンガー?」
相変わらずソファに気だるげに身体を預けているみとはちさんの軽口に、燈花がきょとんとする。目をぱちくりとする。
「ドッペルゲンガー。生き写し。影患い。自己像幻視。自分と同じ姿形をした人物が、もうひとり」
「いえ……ドッペルゲンガーは知っていますよ。でも、あれ、今日って私の番ですよね?」
燈花が首をかしげる。
「うん、今日は和風だ。八恵、もういいから始めるよ」
八恵というのはみとはちさんのことである。というか八恵が本名である。へーい、とみとはちさんが返事をしてソファに座り直す。
「なんか、僕にそっくりの人を見たんだってさ、みとはちさんが」
まだ首が傾いたままの燈花に声をかけてやる。
「香織にそっくりな人、ですか」
角度がかえって増した。首をまっすぐに立てなおしてやる。僕が細い首をぐいと触ると、燈花は小さく「ん」と鳴いた。は、なんだこのいきもの。
「あっれ!」
紅茶コーナーに手を伸ばしていた草苅さんが叫んだ。紅茶コーナーというのは学部生一同の共同出資により設置された非営利事業の通称である。
「私が楽しみにしていたマンゴーフレーバーティーが!」
「あー、はるか、それなら昨日最後の一袋を香織っちが」
「心当たり無いですね。ひょっとして僕のドッペルゲンガーでは」
昨日ゼミ室に来なくてよかった、来たら鉢合わせて死んでましたね、と僕は言った。
死ぬのは良くない、とみとはちさんが応じた。