17
あー。見失った。僕は医学部前のベンチにへたり込んだ。
顔をしかめ、肩で息をする。
二限に単位稼ぎでとっている社会学の授業が燈花と草苅さんと三人一緒なので、そのままの流れでお昼を食べた。デュルケムの後はあまり食欲が湧くものではない。アノミー的食欲に駆られた僕はカレーライス(味噌汁付きません)を食べた。燈花はきつねうどん(裏メニュー)、草苅さんは冷やし中華に何故か追加で冷奴を食べていた。食べ終わった後、燈花は図書館へ、草苅さんはゼミ室へ行くと言い、僕は本屋さんに行きたかったので、そこで三人別れた。が、理学部のあたりを歩いている時に妙に胸騒ぎがして、銀杏並木の方に戻ってみれば、案の定、僕は目撃してしまった。
僕自身を。
しかも今度はしっかりと目があった。
神谷内香織はまっすぐこちらを見た。
なんなんだ。
一体なんなんだ、あいつは。
どうして僕ではない自分がいるんだ。
僕は思わず追いかけたが、タイミング悪くやってきたキャンパスツアーの高校生の群れに行く手を阻まれているうちにすぐに見失ってしまった。もう一人の僕の逃げ足は、僕の全力ダッシュに引けをとらない速さだった。というか同じなのだろう。あれがドッペルゲンガーなのだとするならば。
――自分のドッペルゲンガーに出会うと、死ぬっていうからさ。
ドッペルゲンガーに鉢合わせた。
しかし僕は死んでいない。
そして厄介なことに、あいつも死んでいない。
それこそが問題だ。
僕は頭の中でカレンダーを計算した。日数を数えた。いや数えるまでもなかった。本当は知っていた。今日だ。恐怖がふつふつとこみ上げてくる。走ったときに上がった息が、全く整わない。寒気。指の先が冷たくて震える。
あいつは死んでいない。
あいつは今もこの街を歩いている。
あいつは今夜だって。
「……香織?」
どれくらい時間が経った後だっただろう。
見上げると、本を携えた燈花が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
その時の僕は、ちょっと参ってしまっていたのだと思う。満月が近かったのも悪かったかもしれない。きっとそうだ。「どうしたのですか」と言いながら、ゆらゆらと燈花の顔が近づいてくる。ベンチからそれを見上げるのに目がしょぼしょぼして、自分が涙目になっていることを意識する。
ううう、と唸って目をそらし、俯く。背中を丸める。
「よしよし」
そう言って、燈花が僕の頭を撫でる。その甘い手が触れた瞬間、ふわっと力が抜けてしまう。僕は息を吐いて、そのまま目の前の彼女のお腹に頭を預ける。
いつもふわふわと重量感のない燈花だったけれど、しっかりと僕の頭の重さを支えてくれる。
「大丈夫、大丈夫」
ゆっくりと頭を撫でられていると、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。けれども不安が静まると逆に涙がこみ上げてくる。このまま両手を燈花の腰に回したい、引き寄せたいと思ってしまう。さすがに恥ずかしい。よくわからない一線がそこにはある。
……。
落ち着いてきたら少し恥ずかしくなってきた。なんだろうこれは。なんで僕は燈花に頭を撫でられているのだろう。燈花の手がゆっくりとゆっくりと、一定のリズムで僕の頭の輪郭をなぞる。それは丸い輪郭で、変なものが生えていたりはしない、きちんとした人間の頭だ。燈花の手が僕の頭を確認してくれる。僕はここにいる。ここにいるのが僕だ。今や身体がじんわりと熱い。どうしよう。どれ位時間がたったんだろう。え、これどうやったら終われるんだろう。え、タイミングがないでしょ。これ最高案件か。あ、いや終わらなくてもいいんだけど。いいのか?
「もう落ち着きました?」
ぽんと手が頭に乗せられる。僕は弱い人間だ。
「……もうちょっと」
僕は燈花に始まりから話した。
自分のことを話すのはとても恥ずかしかった。
先日みとはちさんが目撃したという『僕によく似た人』を自分も見ていたこと。それが完全に自分自身にしか思えなかったこと。そして今日、今度は『それ』と正面から鉢合わせたこと。追いかけたが、逃げられたこと。自分がもう一人存在するのが恐ろしいこと。自分の知らない自分が何をしでかすかわからないこと。もちろん、具体的に自分が何をする危険があるのかは言っていない。
それでも。
とても怖いということ。
「自分のコントロールが効かなくなる瞬間っていうか、あるいはそのあとふと我に返る瞬間とか、忘れているけれど何かひどいことをしでかしたんじゃないかとか、無意識に人を傷つけてるんじゃないかとか、そういうのが、とても怖い。だから、そこに自分の管轄外の自分がいるっていうことが、怖い。あれがドッペルゲンガーなのかとか、あるいは妖狐でも、その他いかなる妖怪でも、超常現象でもいいけれど、それが未知の存在だからではなくて、それが自分であるということが、怖い」
昼下がり。学生の通りはまばらで、犬の散歩のおじいさんが横切っていく。
「でもそれは、香織じゃないでしょう」
横に並んで座っている燈花が静かに言った。
「それが何者であるにせよ、いま私と話している香織とは違う存在で」
燈花の言うことはわかる。
「それは、頭ではわかってるんだけど……」
それでも怖いのだ。自分ではない、別のものだと思っていた物事が、実は自分の一部で、自分がしでかしたことの一部かもしれないという恐れ。
「逆に、そいつのせいにしてしまえば?」
「え?」
「マンゴーフレーバーティーみたいに。悪いことはそいつのせいに」
悪いことは、そいつのせいにしちゃえばいい。
自分ではないものの行いが自分のせいになる。
自分ではないものの行いをそいつのせいにする。
それだ。
頭のなかで何かが回り出した。火花が散って、エンジンが唸りを上げる。ピストンが撃ち、クランクシャフトが回転し、ピースが組み合わさって、像が作り上げられ、
「それだ」
「え」
「それだよ、燈花。分かった。ゼミ室に行こう」
燈花の方を向く。顔を見る。……あれ? 燈花がなにか、つらそうな顔をしている。声は明るい声だったのに。ちょっと涙目になってはいないだろうか? 何がつらいのだ。いや、これはつらいんではなくて、あのときと同じ顔。偽名は嘘だと、嘘を言った時と同じ顔。申し訳なさそうな顔? 何に対する、申し訳なさ? 回転数が上がる。映像が巻き戻る。情報が流れだす。
あぁ。
すべてが解けて、僕はそれを知る。