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連休明け二週目。
すなわち、もはや連休明けという言い訳も効かない、普通の平日。
中央食堂を出た僕は、総合図書館へ足を向けた。銀杏並木は青々と茂り、日差しも暖かい。昼休みの時間帯にしては人通りが落ち着いてきた。さすがゴールデンウィークの力だ。新入生諸君、大学になんか来るな。
僕はドッペルゲンガーのことを考えた。妖狐のことも考えなければいけないし、江ノ島のことも考えなければいけなかったけれど、もう一人の自分のこともまた、気がかりだった。
僕は読み漁った文献の中でも一際記憶に残っている一つの資料、いや小説のことを思い浮かべた。
芥川龍之介『二つの手紙』。
この小説は、佐々木信一郎という大学の教師が警察署長に宛てた手紙の形式をとっている。佐々木信一郎は、変なところに教養のある男なのか、手紙の中で古今東西のドッペルゲンガー現象をいくつも引用する。ドッペルゲンガー現象が如何にして起こりうるのか、それが如何に本人の死につながる重大なものであるのか。そして彼は、自身が三度にわたって遭遇したという、『自分自身と妻のドッペルゲンガー』の現象を警察署長に訴える。彼は世間に対する怨嗟を語る。曰く、世間は彼の妻の不義を疑っている。世間が彼の妻の不品行を責める。世間が私たちを迫害している! きっと世間は、彼自身と妻のドッペルゲンガーを目撃し、それを持って妻の不貞を疑っているのであろう。事実無根である! なんという残酷な世間! 世間の中傷からの庇護を求める一通目の手紙が終わり、二通目の手紙が始まった時、読者の疑念は確信に変わる。
この佐々木信一郎という男は狂っている。
彼は自分の妻の不貞という事実をどうにかして弁明しようとし、解釈しようとし、正当化しようとし、ドッペルゲンガーという妄想を生み出しているに過ぎない。
彼にとってのドッペルゲンガーは、現実を捻じ曲げるための調度良い道具なのだ。
僕は自分が狂ってしまった可能性について検討する。
僕はドッペルゲンガーを見たことで何を捻じ曲げたいのか。
しかし、あのドッペルゲンガーは、僕だけではなく、みとはちさんも目撃している。
何十回か繰り返した反駁。
逆に言えば、これしか反駁はない。これが崩れた時、僕は自分の発狂の可能性の高まりを否定することが出来ない。みとはちさんが、やっぱりあれは見間違いだったんだ、この間見た人は一年生の某さんという人で、結構香織っちに似てるんだよ、今度一緒にご飯でも食べようよ、などと言い出そうものなら。
その時、僕はなんとも言いようのない気持ちの悪さが背中を走るのを感じた。
悪寒。
振り返ると、十メートルほど先に立っていたのは、紛れも無く。
神谷内香織だった。
「待て!」
叫んで走る。一瞬頭がこんがらがる。違う。叫んではいない。いや叫んでいる。いま「待て!」と叫んだのは僕ではない。いや叫んだのは僕だ。でもこの僕ではない。叫んだのはもう一人の方の神谷内香織だ。そして僕たちは走っている。僕も向こうの僕も走っている。僕は走っているが、だがこの僕は追いかける側ではなく、逃げている側だ。もう一人の神谷内香織が僕を追いかけてくる。なぜ? なぜ僕は逃げている? なぜ僕がにげなければならな あ わ
やってしまった。
頭を抱える。派手に見られたな。
ちょっと、油断した。