17(狼)
展望台代わりのピークから尾根をつたって少し歩く。登山口付近の手入れされた人工林と違い、いつの間にか周囲の木々は古くなり、僕たちの時間は止まり、閉ざされていく。研ぎ澄まされた空気がこちらに視線を向け、僕たちをじっと観察している。細められた目の向こうに、敵意もなければ親しみもない。ただ、その場は僕たちを見つめている。
ふと木々が左右に消え去ると、それは明らかになった。
くすんだ木製の鳥居。けれどもそれはよく見知った鳥居とは少し違う形で、左右の柱を支えるように一回り小さな柱が前後についている。更に、鳥居の上の笠木にも、小さな柱の上にも、屋根のようなものがついている。
「厳島神社にあるタイプですね」
「そうだね……」
名前は忘れてしまったけれど。それがどんな意味だったかも忘れてしまったけれど。
鳥居をくぐったその先には、あまりにも突然に、まるでそこだけ切り抜かれたかのように、空間が広がっている。
「ここか……」
その自分の声が、やけに響くように感じられる。時折聞こえていた鳥の声が、もうどこにも無い。参道を挟むように、小さな手水舎と社務所らしき建物があり、その先に大きな狛犬が鎮座する。正面には簡素な、しかし威圧感のある拝殿。決して大きな建物ではないし、神社としての規模が特別大きいということはないだろう。けれど、こんな山奥に、どうやってこんなものが建つというのだ。狛犬がギロリとこちらを睨んでいる。よく見れば、案の定それは獅子よりも狼らしい体躯で、鋭い眼光を投げかけている。
ついに到着してしまったようである。
「ごめんください」
僕は言ってみる。しかし、返事は返らない。
社務所らしき建物に近づくと、引き戸がわずかばかり開いている。
「ごめんください」
もう一度中に呼びかけてみるが、答えはない。
「入ってみましょうか」
燈花が言う。戸締まりがされていないあたり、中に人がいるかも知れない。もう一度だけ呼びかけてみて、それでもやはり応答はなく、僕はそっと戸を開けた。
三和土に靴は無いが、室内は綺麗に掃除されているように見える。管理が放棄されて荒れ放題という光景も覚悟していたが、そうではない。少なくとも人がいるのだ。今この瞬間にいるかどうかはともかく。靴を脱いで上がると、雑然とした座敷と、トイレに洗面所、後は倉庫のような部屋が見て取れた。
座敷の真ん中、卓袱台の上に、紙片が置かれているのが目に入る。
「何か書いてありますね……」
燈花がそれをひょいと拾い上げ、僕もそれを覗き込めば。
神谷内殿
遠い所ようこそおいでなさいました。お迎えに上がれず申し訳無い。どうか手水舎で身を清められ、左手から拝殿に起こしください。お連れの方はどうぞこの座敷でお待ち下さい。
「ははあ……」
燈花がつぶやく。僕の胃はぐるりとうねり、緊張が一気に昇ってくる。
「案の定、ですね……」
ここに来る直前、さっきの展望スペースで燈花と話した、『作戦』。まさに、そのとおりの展開になりつつある。
*
「反省したのです。私は」
すまし顔で燈花は言った。それは反省している顔にはあまり見えなかったけれど。
「だから今度は、予め私の作戦を、いえ今回は作戦というほどのものでもないのですが、香織に伝えます。そのうえで協力してほしいのです」
けれど、燈花の説明してくれた推理は、そう簡単には僕には信じられないものだった。
「私の読みどおりであれば、おそらく神社に着くと、香織一人で来るように指示されるはずなのです。もしそうなったら、私を信じて、この作戦でいかせてください」
*
拝殿に向かう廊下を歩く。木々の間から陽の光が差して、ここが人里離れた山奥であることを意識させる。この先には、この六峰神社の神職がいるということになるけれど。僕を待っているということになるけれど。
拝殿の入り口の短い階段を重い足取りで登ると、儀式でも行うスペースなのか、陽の光を遮られた薄暗い板の間が広がっている。奥には御神鏡を中心に三方や御幣が置かれ、やはりここが神事を行う場であることが見て取れる。張り詰めた空気の奥、薄暗がりの風はひんやりとして、僕の背筋を撫でる。
ふ、と、何かのにおいがする。懐かしく、心の奥の方をついばまれるような、落ち着かないにおい。僕はこのにおいを、知っている。
「ようこそ」
柔らかな声が、空間をビリリと震わせる。いつの間にかそこに立っていたのは、烏帽子を被り朱色の狩衣を纏った神職だった。ひと目見て、その顔は僕の想像よりも年老いていることが分かるけれども、しかしその眼光は鋭く、僕の疑念をしっかと見据えてくる。
「神谷内香織さんにお間違いないね」
発せられるその声に、僕は聞き覚えがない。けれども僕はこのにおいを、知っている。
「はい」
「遠い所本当にご苦労でした。早速始めましょう。そこに座って」
そう言って指し示した空間に、先程まではただの板の間だった中空に、見れば腰掛けが一つ。
僕がそこに座ると、ドオンと太鼓の音が響く。驚いて目を上げるが、神職が号鼓を打ったような素振りはない。何かがおかしいのではないか、と僕は思う。
神職は御神鏡に礼をし、祓詞を唱え始める。
かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ――。
僕が知っているのはそこまでで、その先の言葉は何を言っているのかわからなくなる。神前であり、本来は心を落ち着けるべき場なのに、僕は神職の後ろ姿を食い入るように見つめる。あれは。燈花の言う通りならば、あれは。
「少し頭を下げて」
神職が大麻を持ち、僕の頭上で左右に振り、穢れを祓う。ざわり、ざわりと大麻の揺れる音。その向こうに、やはりあのにおいがする。僕は知っている。このにおいを、知っている。ざわり、ざわりと大麻が揺れる音。甘いような。煙たいような。ざわり、ざわりと大麻が揺れる音。
……少し長くはないだろうか、と思い始めたその瞬間。
ピシリ、と首筋に痛みが走った。
「な……」
「そのまま頭を下げて」
鋭い声で制され、反射的に僕は動きを止める。遅れて、今何がおきたのか、何が置きているのか理解する。
僕の首元に貼られた狼が剥がされようとしている。
「あ……く……」
そのまま頚椎を走る神経まで抜き取られていくような鋭い痛みと脱力に、僕は声を上げることが出来ない。ざわり、ざわりと大麻が揺れる音。レモンとシロップと草とを煮詰めたような、甘くて煙たいあのにおい。全身が燃え上がるように熱く、額に噴き出した汗が顔をつたって垂れ、その雫が板張りの床に着くまでの数瞬が無限に分割され、引き伸ばされて、いつまでもいつまでも、遠く。
吸うことをもう何年も忘れていた息を大きく吸い込むようにして顔を上げると、神職はすでに僕の前を離れ、手にした札を御神鏡の前の三方に載せている。
狼の姿の描かれた札。
間髪をいれずなのか、僕の意識が絶え絶えになっているのか、区別がつかないままに、神職は続けて祝詞を奏上する。その言葉が何を言っているのか、僕にはもう分からない。僕は大きく息を吸う。息を吐く。震える手を首元にやれば、そこにはなにもない。札は無く、傷もなく、痛みも無い。喪失感もなければ、安堵もない。手のひらを見やれば、そこにもなにもない。君には見えないんだから、と頭の中で声がする。僕は落ち着くために深呼吸をする。深呼吸をする。そうしているうちに祝詞は終わる。神職が深く礼をし、何事か鈴のようなものを鳴らす。その音が脳に染み込み、僕はやっと本当に落ち着きを取り戻しつつある。最後に神職が二礼二拍手一礼し、僕の方に向かって、微笑みながら歩み来る。
「こちらで終わりです」
「終わりにしてもらっちゃ困ります」
その声は。僕から発せられたものではなく。
「まだ、終わりじゃありませんよ、藤木先生」
けれども紛れもなく僕の、神谷内香織の声だった。