16(狼)
真っ直ぐな朝の国道を車が走る。屯田団地って直球な地名だなぁとか、この道路の端を表示する矢印は面白いけど役立っているシーンで運転したくはないなぁとか、真勲別川って名前読めないなぁでも綺麗だなぁとか、益体もないことを考えて、僕は緊張を遠ざけようとする。
やがて車は市街地を抜け、空が広くなり、周囲に田園風景が広がり始める。燈花が窓を少し開けると、さっぱりと乾いた風が吹き抜ける。
「気持ちがいいですね」
「うん」
国道は一旦内陸に折れ、峠を越えてトンネルを抜け、やがて海岸線を走る。左手には海、右手には草原が広がり、留萌まで100キロの表示が見える。
「向こうに見えている山が目的地だそうです」
「あれが」
僕を助けてくれるという神社は、あの六峰山という山の山中にあるらしい。一時間かからずに登れるという話だったけれど、ここから見ると結構険しい山に見える。
「ところで、香織は本当にこんなところに神社があると思いますか?」
「え……」
「いえ、あるという話ですから、多分あるんでしょう。ですが、こんなところにある神社が、それほど有力なのか、という意味です」
それは確かに、燈花の言うことはもっともだと思うけれど。
「基本的には、ここはヤマトタケルや、それどころか坂上田村麻呂も到達してない土地なわけで、神社にいるようなニッポンの神様がやってくるのは遅かったわけですよ」
燈花は『ニッポンの』のところで指をクイクイとエアクオートするけど、ハンドルを握りながら片手でやってもクオートできていなかった。
そう、道南ならまだしも、ここは石狩だ。神社が立ち始めるのはせいぜい江戸時代、増えたのは開拓使時代ということになるだろう。
「しかもその神社が、狼に関係しているというのが、いまいち……」
「そのとおりです」
開拓期の日本人にとっては、狼は家畜を襲う憎むべき存在だ。実際、開拓使が展開した積極的な駆除によってエゾオオカミは絶滅に追いやられたと言われている。いくらかつては神格化されていたとはいえ、その時代に建てられた神社が、狼を祀るということはあるだろうか?
「ええ……でも、燈眞さんの情報でしょ?」
「父が聞いてきた情報です。父がその後連絡を取ってくれたらしいので、神社自体は実在するんでしょう。ただ、伝聞ですからね。誰から聞いたのか、この間確認したんですが、その情報源もイマイチ信頼できなくて」
え。それ大丈夫なのか。というか、それ今言う? ここで?
「とはいえ。今はこれしか頼れる情報がありません。それに、どのみち狩人に命を狙われている以上、行ってみるしかないです。ここまで来たのですから。ハイキングだと思って登りましょう」
*
登山口の駐車場に車を止める。駐車場と言ってもただの開けたスペースで、僕たちの乗ってきた稲荷木家のアクア以外に車はない。端の方に登山口を示す看板と、小さなトイレがあるだけだった。神社を示すような表示もなければ、地図もない。
「本当にこの上にあるの?」
「甚だ怪しいと言わざるを得ませんね」
登山口の看板には、山頂まで50分、と書いてある。神社に関する案内はない。神社というのは山頂にあるのか、それとも途中にあるのだろうか。
「でもほら、見てください」
燈花がスマホを差し出す。見ればグーグルマップ上に『六峰神社』がプロットされていた。
「星1つです」
「低い」
「通常に比べて混んでいます、とのことです」
「それ僕たちの位置情報カウントされてるんでしょ?」
というか通常を示すグラフが平坦すぎた。
「山頂少し手前のところに社があるようです。どれくらいの大きさなのか分かりませんが……」
「というかその、神職という人はそこにいるの? この山の上に?」
「いるんじゃないですか? そういう話ですし」
いや、行ってみて今日はいませんとかだったら登り損じゃないか。
「まあまあまあ、行きましょう。ハイキングだと思って」
ハイキングではなかった。
始めこそ踏みならされた山道だったが、途中から岩場が多くなり、そこここに張られたロープを使って身体をなんとか引っ張り上げていく状態になった。燈花がどこからか取り出した軍手を借りて、全身汗だくになりながら登っていく。風が吹いている間は涼しいが、無風の瞬間は暑くてたまらない。途中途中で、燈花が見慣れない綺麗な花なんかを見つけて教えてくれるのだが、途中からそれに返事をするのもつらくなってくる。500ミリリットルのペットボトルが一瞬で無くなり、こんなことならもっと買えばよかったと思うと、燈花の背負ったリュックサックから2リットルのボトルが出現した。準備が良い……。
僕はまた、この山を登った先にあるもののことを考えていた。とりあえず情報は信頼するとして、本当に神社があって、神職がいて、僕の狼を外してくれた場合の話だ。狼がいなくなれば、僕は安全かも知れないけれど、丸裸だ。先を行く燈花の後ろ姿を見つめる。その時、燈花は僕のことをどう見るだろう。
そんな余計なことを考えて、漫然と登っていたからだろう。
「うわっ」
僕は足を踏み外し、大きくバランスを崩してしまう。とっさに手を伸ばしたその先に。
「っと……気をつけてください」
燈花の僕よりも一回り小さな手が、僕をつかまえる。
「ありがとう」
「大丈夫ですか?」
けれども僕は目を逸らしてしまう。
「大丈夫だから、行こう」
燈花の目に覗き込まれるのが、なんだか今は怖い。
ゆっくり登っているとは言え、もうすぐ一時間くらい登っていることになるから、じきに着くのではないか、と訝しがり始めたとき。一気に空が開けて、展望台のようなスペースに僕たちは到着した。
それは急峻を抜けた登山者へのご褒美のようで、吹き抜ける清涼な風の先に、絶景が広がっていた。
「おお……これは……」
そこは頂上の手前のピークで、周囲の大地をぐるりと見渡すことが出来た。登って来た側の西側には平坦な海が青々と広がる。反対側には遥かに続く起伏に富んだ森のカーペットが静かに続き、彼方に雪を戴く岩山を望む。それは、僕がまるで見たことがない種類の絶景で。登ってくる途中の鬱屈とした気持ちが、一気に吹き飛ばされてしまうような。景色が良いというだけで、こんなに気分が良くなってしまうなんて、自分のばかばかしさにもう笑ってしまいそうで。
「いい景色……」
そうして思い出すのは、燈花と二人並んで見た、あの景色。
気づくと僕たちの手は、また繋がれていて。
けれど燈花が首を振ったかと思うと、汗と土で汚れた軍手を外しはじめて、僕も苦笑しながらそれに倣う。
今度はお互い汗ばんだ手のひらを、しっかりとくっつけて。
「東京の景色と、どっちが好きですか?」
あの時二人で見たスカイツリーからの景色。残念ながら夜景じゃなかった景色。
「どっちも好き」
「ええ」
「狼的にはこっちのほうが好きかな」
「狼的とかあるんですか?」
「燈花のきつねうどんみたいに分かりやすいのはないけれど」
「別に私は、狐の血がなかろうがきつねうどんを愛していたと断言出来ますよ」
断言出来なくていいよ。
「あのさ、燈花」
「はい」
いいですよ、とばかりに燈花が僕の手を握り直す。
「なんだか色んなことが急すぎて、よくわからなくなったんだけど、でも……」
その手がすごく、あたたかい。
「来てくれてありがとう、燈花」
僕たちは互いを見ていなかったけれど、横に並んでいるだけなのだけれど、隣にいる燈花が微笑むのが分かった。
「前に言いましたよ。もともと私のせいなのですから」
「それでもありがとう」
「はい」
「燈花が一緒にいてくれるから、この十日間、夜眠るのが怖くなかった」
「そうですか?」
「うん、僕が眠っている所を、横で見張っていてくれるんだと思うと」
「いや、私も寝ますけどね」
「それはそうだけど」
そうだけど、そうなのだ。そりゃあもちろん、同じベッドに燈花がいると、別の意味でドキドキすることはあるけれど。けれど、隣に信頼できる人がいると言うだけで、僕はこんなに安心できるんだと、この旅行ではじめて気付かされたのだ。
「あのさ」
「はい」
「この間、スカイツリーの展望台で言ったことだけれど」
こんなふうに、二人で並んで、東京の街を見下ろしながら言ったことだけれど。今度は前より、自然に言えると良いのだけれど。
「僕はもっと、燈花とずっと一緒にいたい」
「……はい」
「燈花に見られるのは、燈花に知られるのは、ちょっと怖いけれど、燈花になら良いって、思えるようになってきたよ」
僕を知るのは僕だけでいいと、以前は思っていたけれど。それは僕を形作る、変わらない芯のようなものだと思っていたけれど。こんなに簡単に、変わってしまう。
それは認めてしまうのはとても恥ずかしくて、僕は彼方の山々に目を細める。隣で燈花がふふ、と笑う。
「不安なのですか?」
ぞくり、と鳥肌が立ち、顔が火照るのがわかる。そう、気付かれている。見通されている。知られている。
「……うん」
不安なのだ。こんなことを言い出すくらい、不安なのだ。
あの日。燈花は、僕について、こう言ってくれた。
分からないところがあったのです。だから気になりました。もっと香織のことを知りたいと思いました。
そう、そしてその『分からないところ』とは。
燈花の母親譲りの血を持ってして見えなかったこととは。
僕の中の狼だった。
だけどこれから僕は、狼を捨てる。
それはつまり、燈花にとっての僕の謎が、解けてしまうどころか、消滅してしまう事にならないのだろうか。燈花は僕に対して、完全に興味を失ってしまいやしないだろうか。狼も火鼠もいなくなれば、僕は自分を監視する必要はないだろう。自分を知り尽くす必要はないだろう。そうなったら、それは燈花もおんなじで、僕のことを知ろうだなんて、もう思ってはくれないのではないか。
「みっともないけど、僕はそれがずっと不安で。気が重くって……」
堰き止めていた不安が溢れて、僕は泣きそうになってしまう。
「ふふ、それはですね、実は心配無用なのです」
けれど燈花はそう言って、優しく僕を覗き込む。
「それに関しては、母と同じ話をしたことがあるのです」
「……お母さんと?」
「ええ。母は、私の何倍も見えます。物陰から一目見れば、姿の見分けがつかぬほど化けられる。二歩歩くのを見れば、動きまで余すところなく写し取る。三言喋るのを聞けば、物言いから頭のなかまで真似られて、誰にも区別が付けられなくなってしまう……。それくらい、僅かな情報からでも人間を見通してしまうのです」
元伝説の半妖狐『アシキ』にして、現在は燈花の母、稲荷木二色さん。
「そんな母ですから、私は結構、疑問だったのです。そこまで見えてしまったら、人に飽きてしまうのではないかと。だってひと目見るだけで分かってしまうんですから」
燈花は続ける。
「そうしたらですね、それこそ全部お見通しみたいな顔で言われました。飽きる前に変わる、と」
「変わる……?」
「それこそ燈花、お前が生まれてくるときの話じゃが」
燈花は声真似で言った。
「じゃがって」
似合わない。
「変身してやったほうが良いですか?」
「それも怖いからやめて」
仕方ないと言った顔で、燈花は口調だけ真似て続けた。
「お前が生まれてくる時、儂は二つ心配事があった。一つ目は、儂が母親になれるのかということじゃ。何しろ、儂には母親というものがわからん。儂が生まれる時に死んでしもうた。父親すらわからん。すぐに消えてしまった。じゃから親らしいやり方というのは皆目見当もつかなかった。燈眞もあれで、親とは色々あったようじゃしの。それがまず不安じゃった。二人して不安じゃった」
「結果を言えば、これは今じゃから言えることではあるが、別に不安がることはなかったの。儂は自分が良い母親になれたかどうかはわからんが、燈花、お前が儂の子だということは胸を張って言えるわ。それだけで十分じゃな」
「もう一つ不安じゃったのが、お前が今更ながらに気付いたそれじゃよ。つまり、『ひと目見れば』の儂が、子育てに取り組めるのか、ということじゃな」
「ひと目どころではない。自分の血が半分も入った子供と、四六時中一緒にいるわけじゃ。そんなもの、はっきり言って丸見えの全見え、見え見えパラダイスじゃよ。見えパラじゃ。今だってお前が考えていることなんぞ、全部分かるわ。これは本当に全部じゃ。いま見えパラってさすがに何だよと考えたじゃろう」
「じゃがな。育てはじめてすぐ分かったのじゃ。今日のお前が全部分かっても、明日のお前は分からない」
「時間、じゃよ」
「人間は時間で変化してしまう。子供なぞ尚更じゃ。昨日出来なかったことが今日には出来る。今日わからなかったことが明日にはわかる。今日からは想像できないようなことを明日には言う」
「一番身近な燈眞が変に安定しすぎとるせいで、考えてもみなかったのじゃな」
「毎日毎秒、それだけ育っていくお前を、今日知り尽くしたところで、それが何になろう。今日の知悉は明日の無知、通暁のちまた夕闇来たる、じゃ」
「それが分かってからは本当に楽しかったぞ。明日はどうなるか、この子は次はなんと言うか、楽しみで仕方がなかった」
「儂らは人が見える妖狐であっても、未来が見える占い師ではない。この役割分担はなかなかよく出来ておるの。じゃから、人に飽きるなんて傲慢なこと、ありはせんのじゃよ」
語り終えた燈花は、柔らかい髪をゆらゆらさせながら、微笑んで言った。
「ですから、私は何も心配してません。香織はずっと同じじゃないのですから」
……そうか。
僕が一人で悩んでいたことも、稲荷木家では解決済みか。
「というかですよ。それ以前に私、どれだけ香織のことが読めていますか?」
「……え、結構読まれてると思ってたけど」
「偉そうに言えることじゃないですが、香織に勝手に変身した件にしろ、弘前公園で爆走した件にしろ、全然読めてないじゃないですか」
「偉そうに言うな」
「わはは」
「わははじゃないよ」
「だから全然、私は物足りないですよ。香織のこと、まだまだ知らないといけないのですよ。狼がいるとかいないとか、あんまり関係ありません。私も香織と一緒にいたいし、もっと知りたい」
握りしめた手が熱い。火照る身体を、清冽な風が撫でる。
「そう言えば、母の話をして思い出しましたが、あの変身が気に入らないのです」
「あの変身?」
「母が香織に変身したことです」
「狩人に狙撃されたってときの……?」
「そうです。あそこで化けられるのは、香織がうちに来たときに母に見られたからです。つまり香織のことが全部母に知られているのです」
まあ、そういうことになるのだろう。
「母親がライバルとまでは言いませんけれども、あそこまで完璧に香織を知られているのは、やはり気に入らないのです」
「はぁ……」
「それが気に入らないので、変化を加えたいと思うのですよ」
「変化?」
「そうすれば母が知っている香織はもう、香織じゃなくなりますから」
燈花がこちらにひたと寄り添って。
「子供なら日に日に勝手に変化するんでしょうけど、私たちもう子供じゃありませんから」
「そうだね……え?」
もう片方の手が、燈花に捕まえられて。
その眠そうな、けれども今日は上気した瞳が、風に揺れながら近づいて。燈花の言葉はほとんど囁き声になって。僕はもう、予想してしまう。期待してしまう。そして予想と期待が、燈花に知られている。知られていることを知っている。
「強制的に、上書きしようと思うのです」
そっと触れた唇は、僕を上書きして溶かしていく。