15(狐)
札幌でのホテルは、エレベーターに女社長の顔が貼ってあるタイプの例のホテルチェーンでした。毎回チェックインする度に会員カードがもらえるのですが、毎回なくすので今回の旅でもう三枚目くらいな気がします。
けれど今日が最終夜です。
少なくとも往路は。
目的地、六峰神社は、札幌から二時間ほどでつくそうですから、明日の朝の移動でゴールとなります。明日の昼までにはこの小旅行は、いや、もう大旅行といっても良いかも知れませんが、この旅は完結しているのでしょう。そう思うと感慨深いものがあります。
例によって例のごとく、ベッドで埋められた代わり映えしない部屋です。この生活にも大分慣れてしまいました。
「ちょっとコンビニに行ってきます。買うものありますか」
「んー」
本を読んでいた香織が顔を上げて言いました。
「大丈夫」
文庫本は指輪物語の旅の仲間の下1でした。まず旅の仲間って第一部みたいな感じだったと思いますが、それが上下巻で更に数字で分かれているって長すぎでしょう。よくそんな物を読みますね。仙台で書店に寄った時、香織は「この旅って指輪物語っぽいよね」と言いながらそれを買っていました。それだとラストシーンの一歩手前で、ポジション的に私が狼になってしまいますよ。映画しか見てないので詳しい話知りませんが。
女社長とにらめっこしながらエレベーターで一階に降り、ホテルを出てすぐ眼の前のファミマへ向かいます。スマホが震えるので見れば、みとはちさんからメッセージが届いていました。
いつも頼ってばかりのような気がしますが、みとはちさんには調査をお願いしていたのです。
「思ったより時間がかかってごめんねぇ。でもビンゴだよ。無量蓮美も同じ会のメンバーだった」
「ありがとうございます。繋がりますね」
「言ったとおり、私はこの無量というやつに先日会っているよ。ひどい目にあわされた。そのときにも藤木センセーに昔世話になったんだとか、釈放の手助けをするんだとか言っていたから、間違いないだろうね。さてセンセーが無事釈放されたのかは知らんけどさ」
みとはちさんにもう一度お礼を送って、私は天を見上げます。曇天の闇夜はやけに明るく。概ね、私の仮説は完成したと言って良いでしょう。私はファミマでドーナツとカフェラテを購入します。
ホテルに戻り、ちょうど一階に止まっていたエレベーターに乗り込むと、女社長の他にもうひとり、乗り合わせた先客がいました。小学校中学年くらいの少年。いかにも育ちの良さそうなシャツを着て、しかし一瞬だけこちらを見た眼光は鋭く、私はエレベーターに乗り込み彼とすれ違う瞬間に、その子の目が紫色に光るのが見えたような気がしました。
私は自分の階のボタンを押そうと少年の後ろから手を伸ばし、しかし、その手が空中で止まります。
私より先に乗っていたはずの少年は、階数のボタンのすぐ横に立っているにもかかわらず、そのボタンはどこも光っていません。なぜでしょう。普通は乗ったらボタンを押すでしょうし、私が乗ってくるのを待ったとしても、私が乗っている間に、あるいは乗り終わったのを確認してから、押すでしょう。少年はそんな素振りは見せず、ただ突っ立っているだけです。あるいは少年は上の階から降りてきて、いまこの一階に到着したところに、私が乗り込んでしまったのかとも思いましたが、少年は降りる素振りも見せません。
「……どこも押していないのですか?」
私がそう尋ねると、背の低い少年はぐるりと上を向くように振り返り、こちらを睨みます。
「異世界に行くのに失敗した」
「……はい?」
少年は舌打ちして顔をしかめました。
「エレベーターで異世界に行く方法があるんだ。それを試してたんだけど、途中でお前が乗ってきたから失敗だ」
エレベーターで異世界に行く方法。知っています。
一人でエレベーターに乗って、一定の順序で階を移動します。次々と移動していって、その間に誰も乗って来なければ成功し、ある階で謎の女が乗ってくる。それには絶対に話しかけてはいけない。そのまま一階のボタンを押すと、エレベーターが何故か上っていき、そのまま異世界に行ってしまう。そういう都市伝説です。試したことはありませんが……。
「はぁ、それはすみません」
少年は小奇麗な身なりで賢そうな顔をしていますが、都市伝説の実地検証とは将来有望ですね。私は少年を眺めます。その外見と中身を眺めます。態度が悪いながら、私に対して興味を持っている。この人はどれくらい話についてきてくれるだろうかと、私を観察している。
「で、お姉さん何階?」
少年は横柄に言います。
私は持っていたカードキーをひらひらさせました。少年はそれを読んで、七階のボタンを押します。
エレベーターがガクン、と揺れ、私たちは上に向かって運ばれ始めます。
「ん、そういう君は何階ですか」
少年は目をゆらゆらさせます。
「俺は別に、泊まってないから」
「……君、都市伝説を試すために勝手に入ったのですか」
「十階以上あるエレベーターじゃないと駄目だから」
勝手に入る方が駄目でしょう。他に適当なビルはなかったんでしょうか? まあ、十階あるエレベーターで、かつ人が少なめというと、それほど選択肢はないのかも知れませんが。
「異世界に興味があるのですか?」
少年は舌打ちして顔をしかめた。どうやらそれが彼の癖です。
「本当にそういうのがあるかどうか確かめたかっただけだ」
そうですか。でも嘘をついている感じはしません。本当にどちらかと言うと、そういう探究心なんでしょう。
「異世界に行くっていうのが、本当はどういう状態を指しているのか、分からない。だから、これは試しがいがある」
少年はそう言いました。聞いても頭の中でちょっと像を結ばない、どういう意味なのかわかりにくい言葉です。
「つまり、謎があるような都市伝説が好きなんですね」
そう言って微笑みかけると、少年は舌打ちして顔をしかめました。シャイなのですね。
「謎がない都市伝説はつまらない」
「謎がない都市伝説……でもそう言われると、逆に思いつかないですね……」
都市伝説というのは都市伝説ですから、大抵は多少の謎があるように思います。
「たとえば、イキスさまっていうつまらない話がある」
つまらないと言いながら、彼はその話をしたそうに、こちらの反応をうかがっています。
だから私は聞いてあげます。
「どんな話ですか?」
少年は微妙に間をとって、まるで言い淀むみたいな、別に話したいわけじゃないんだけれどと言うような間をとって、語り始めます。
「あるところに、走るのが大好きな元気な女の子がいた。ある冬のすごく寒い日に、この女の子は締まりかけた踏切を無理やり渡ろうとして、列車に轢かれてしまう。両足を根本からばっさりと切断され、普通ならば即死。だけれど、厳冬の線路の上で綺麗に切断されたせいで、しかも運悪く切断された瞬間、女の子がしっかり息を止めていたせいで、傷口が凍りついて、またたく間に塞がってしまった。出血が少なかったので、轢かれた直後、女の子はまだ生きていた。慌てて電車から降りてきた車掌が女の子に駆け寄ったけれど、上半身だけで這い寄ってくる彼女の姿を見て恐怖に腰を抜かしてしまう。私の脚、私の脚、と、うわ言のように言いながら迫ってくる女の子からなんとか逃れようと、車掌は死に物狂いで逃げ、線路脇の鉄塔によじ登るが、途中で手を滑らせ地面に転落、頭を打って死んでしまった。やがて警察が到着し現場を調べたところ、事故現場は車掌の死体の他に女の子の下半身の肉片が散らばっているばかりで、上半身が消えてしまっていた。上半身だけの女の子は、今でも自分の脚を探してさまよっている」
ああ。知っているな、私は思いました。かなりメジャーな話じゃないですか、これって。でも、バリエーションは色々ありますが、イキスなんて名前ではなかったと思いますけれど。
少年は続けます。
「この話を聞いた人の元には、夜眠っている間に脚を探す女の子がやってくる。女の子に目をつけられると、脚を切り取られて死んでしまう。それを防ぐには、寝る前に息をしっかり吸って吐く、これを繰り返して、息を止めないようにして眠らなくてはいけない。そうすれば、イキス様が女の子から守ってくれる」
……は?
「え、女の子の名前がイキスっていうんじゃないんですか」
「違う。イキス様は守ってくれる神様の名前」
「唐突すぎるでしょう」
「機械仕掛けの神はいつも唐突」
「そういうものですか」
まあ確かに、お話として完成度が低すぎる感じがします。この怪談、流行らないでしょう。普通は、何か言われるからこう答えれば助かる、みたいなのが続くものですよ、この手の怪談って。脚をくれ、と言われたら、今使ってます、って答えると助かる、とか。
それこそ、私が『アシキ』の都市伝説を自主ゼミに持っていった時、みとはちさんはすぐに言いました。対処法があるのが都市伝説っぽい、と。その肝心の対処法が適当ではちょっと……。
「確かにその話、そんなに面白くないと思いますけど、『謎がない』ってどういうことですか?」
少年は舌打ちして顔をしかめた。
「わからないのか? おかしいだろう、この話」
「え……」
私は改めて考えます。凍えるほど寒いから傷口が塞がった下りでしょうか。いやまあ、確かにそんなんあるわけないだろという感じはしますが、そこのことでしょうか? 多分そういうことじゃないですよね。であれば、イキス様が守ってくれる下りでしょうか。
「ああ……。そういうことですか。『息を止めないようにして眠らなくてはならない』っていう」
「そこだ」
「確かに、ちゃんちゃらおかしいですね」
寝る前に息をしっかり吸って吐く。これを繰り返して、息を止めないようにして眠らなくてはいけない。
「だって、息を止めて寝たら死んじゃいますからね」
だからあの話を聞いた人は、必然的に、絶対確実にイキス様に助けてもらう事ができる。助けてもらったことになる。
「上半身の怪がお前から脚を奪いにくるけれど、イキス様が助けてくれたのだ、ということに自動的になってしまう。危機が勝手に来て勝手に去っていく。そういう仕掛けだ」
「なるほど」
「こういうのは謎がなさすぎて嫌いだ。苦笑いした後、なんにも残らない。どうせ都市伝説、信憑性はない、なんて思いながら、でももしかしたら、って思えるような話が良いじゃないか」
少年は語ります。一理あると私は思います。そうですよね、夢がないと。こう、少しだけゾクッとさせられる、もしかしたら、の感情。それが醍醐味ですよね。
……あれ。なんだかずいぶんと、話し込んでいた気がしますが。どうしてこんな話になったんでしたっけ。
ぐるりと少年が顔をこちらに向けます。
「だからさ、俺は異世界に行けるかどうかもう一度試すから、次は邪魔をするなよ」
少年の目が一瞬、またしても、深い紫色に輝いたような気がして、私は動けずにいます。エレベーターが七階に到着して、扉がずるりと開きます。このエレベーター、七階に来るまでものすごく時間がかかっていませんでしたか……?
少年はそれきり黙ってこちらを見ています。もう会話イベントは終わったから、とでも言いたげな、ゲームのNPCのように。こちらの様子を、じっとうかがって。自分の企みが成功するかどうかを、じっと見守るその二つの目。私はその目が、あるいは今聞いたばかりの出来の悪い都市伝説の内容が、どうにも心に引っかかって離れなくなります。
*
「おかえり」
「ただいまです」
部屋に戻ると香織はさっきと変わらない体勢で本を読んでいました。
「私が行って帰ってくるのに、どれくらいかかりましたか?」
「え?」
「いえその、変に時間がかかっていたりしましたか?」
「いや、別に……どういうこと?」
うーん。まあ普通、時間を測っていたりはしませんよね。
「いえ、ちょっとコンビニで悩み過ぎたかなと思ったので」
「何を悩んでたの」
「ダブルチョコオールドファッションにするかミルクチュロッキーにするかです」
私はダブルチョコオールドファッションを袋から取り出しながら言いました。
「え……またそんな、夜に重いものを……」
「何か問題でも?」
「良いけど……」
私はダブルチョコオールドファッションを頬張り、カフェラテをすすりました。口の中でチョコ生地がいい感じにカフェラテを吸います。
「ああ、鹿島だから息栖なんですね」
私は唐突に気付いて言いました。
「え?」
香織が顔を上げます。
「いえ、ちょっと変な都市伝説があって、内容が明らかにカシマさんのアレンジで、タイトルがイキスさまだったんです」
カシマさんというのは、例の上半身の怪の名前で、多分鹿島神宮とは関係ないですが、イキスさまの名前をつけた人はその連想で名前を適当に決めたんでしょう。鹿島神宮、香取神宮、息栖神社は東国三社と言われる結びつきの深い神社です。うーん。雑です。
「都市伝説も作者の巧拙が結構出ますよね……」
私はミルクチュロッキーを袋から取り出しながらそう言いました。
「は?」
「なんですか?」
「いや、ミルクチュロッキーも買ってんじゃん」
「はい、何か問題でも?」
「ダブルチョコオールドファッションにするかミルクチュロッキーにするか悩んだとか言って結局両方買ったのかよ」
「悩んだんだからしょうがないじゃないですか」
私はミルクチュロッキーを頬張り、カフェラテをすすりました。口の中でミルク生地がいい感じにカフェラテを吸います。
「十一時だぞ。さすがにこの時間に二つは多いでしょ」
「そんな事ないですよ。だってドーナツってこんな大きな穴開いてるじゃないですか。スカスカですよ。体積的には二つ食べてもまだ一つ分以下ですね」
「アメリカの警官みたいな言い訳をするな」
「いよいよ明日が最終日ですからね、万全の体勢を敷かねば」
そうですよ。明日が最終日です。
決着を付ける時です。
*
最近はどこのビジネスホテルも、チェックアウトはカードキーを箱に入れて終わりというところが多いです。それなのに私がわざわざカウンターに立ち寄ったのは、朝置きたら部屋の入り口の扉の下に、『チェックアウト時に受付にお越しください』のメモが差し込まれていたからでした。
「何かやらかしましたかね」
「いや、別に心当たりないよね……」
香織と二人でそんなことを言いながら受付に申し出れば、なんのことはない、郵便が届いているということでした。受け取ったのはA4判の封筒。差出人の名前は無し。ですが私が泊まる場所を教えているのは、両親を除けば一人しかいませんし。
こっそりと、ロビー横のトイレで封を切れば、入っていたのはなかなかどうして、普通は手に入りそうもない資料でした。
「みとはちさん、どうやってこういうの取ってくるんでしょうね……」
私は半ば畏敬に近い気持ちでつぶやきます。