14(狼)
拗ねるのもあんまり大人げないと思ったので、燈花から謝られたときは嬉しかった。気まずいままこの旅を続けるのは嫌だったし。それに、こちらこそごめん、と言った瞬間の、つまりは僕から許された瞬間の燈花の顔を見たら、許してあげるのって悪くないな、と思えたりした。
燈花に背中に跨がられるのは、決して嫌な気分ではなかった。ただ、身体の自由が効かなくなって、ろくに説明もされずに狩人と戦うことになったのが、どうしようもなく怖かったのだ。けれど、燈花はもうあんなことはしないと約束してくれたし、実際、この道中で最も危険な夜を首尾よく乗り切ったことは喜ぶべきことだから、もうこれ以上うだうだ言うのはやめることにする。
というか、狼の状態があんなに動けるものだとは、僕は知らなかった。藤木先生からは狼になるときは外に出るなと言われていたし、僕自身、自分が制御できなくなることが怖くて、いつも自分を拘束していたからだ。
*
「毎月一度、満月の夜だけは、君は狼にならないといけない」
藤木はそう言った。
「狼になった君の姿を他人が見たら、当然驚く。それに、君の意識は無くならないけれど、体調が悪いときと一緒で、多少感情が乱れたりする。だから絶対に、狼になっている間は外に出てはいけない。自分一人の部屋で、安全を確保すること。君自身の安全でもあるし、周りの人間の安全でもある」
それは何度も繰り返された忠告だった。
「そのかわり、狼は君を守ってくれる。誰よりも強く守ってくれる。狼が付いている限り、それが憑いている限り、火鼠は鳴くことだって出来やしない。それが山の神の頂点、王者たる狼の力だからだ」
「これからずっと、狼をつけたままにするんですか」
僕は尋ねた。
「おおよそ二十歳までに火鼠が離れていくから、それくらいまでは必要だね」
狼の秘密を抱えて、安全に夜を過ごすには、狭い実家は不向きだった。何度となく母に目撃されそうになり肝を冷やした僕は、早く実家を出たいと思ったけれど、家の経済状況を考えたらそれは難しいはずだった。
「神谷内くん、東京に来ないか」
けれど藤木先生はこともなげに言った。
「君、成績は悪くないんだろう? 奨学生で寮に入れば、お金のことは心配しなくて良い」
いつの間にか彼がその高校の教師をしているという事実は、入学式の日まで僕には知らされなかった。
*
「まずは合格おめでとう、神谷内くん」
大学合格祝いだと言って、寿司に連れてこられた。ちょっと高そうだ。
「良いんですか先生、教え子の女子高生と二人でこんな所」
「退職金をもらう予定はないから大丈夫だよ」
藤木は先生ヘラヘラと笑った。
「え、辞めるんですか」
「うん、大学に仕事が見つかってね」
「…………」
僕は先生をじっと見た。最初に河川敷で会ったときと変わらないくたびれた顔。
「先生、僕のストーカーか何かですか?」
僕のこと好きなんですか、と言いかけて、言葉を変えた。いよいよ事案になってしまいかねない。
「いやいやぁ、教育者としての務めだよ」
先生は照れながら頭をかいた。
「褒めてない」
高い寿司は美味しかったけれど、やっぱり僕は先生と二人だと落ち着かなかった。最初に河川敷で会ったときからずっと、この人には覗き込まれているような気がするのだ。自分の中身を見られる感覚。自分の中身を知られる感覚。
「神谷内くん、四月からはどこに住むか、もう決めた?」
高校を出たら、もちろん今の寮は引き払うことになる。
「まだ決めていないですけど、一人暮らしですかね」
当然そのつもりだった。自分を監視するには、自分と向き合うには、一人が一番だ。
「そしたら必要なことがあったら何でも言ってね。物件探し手伝うし、必要なら保証人とかなるし。引っ越しも手伝うし。何ならうちに一緒に住んでも良いよ」
「事案だぞ」
こうして親しげに言葉を交わしていて、この人が僕に対して本当に親切で、悪意なく援助をしてくれていると感じる。けれど同時に僕は、僕を知るのは僕だけで良いと思っている。だからそこに、断絶がある。だから僕は、最後の最後で遠ざけてしまう。
「君がこうして立派になって、お母さんも喜んでるでしょう」
「そうですね」
母は喜んでくれている。地元に一人残して東京に出てきてしまっている僕を、それでも応援してくれている。
「お父さんも喜んでるよ」
「……はい」
先生は父と、学生時代に先輩後輩の関係だったと聞いている。けれどそれ以上を語ってはくれたことはなかった。いつも密かに、何か話してくれないだろうかと思っているのだけれど。
「大学ではきっと、たくさん勉強できるよ。たくさん知り合いも出来るだろうし、中には一生の友達も出来る」
先生は、急に先生みたいなことを言う。
「神谷内くん、友達なんていらないみたいな顔してるけどさ」
「失礼な」
「じゃあ友達欲しい?」
「まあ……」
「ほら」
「失礼な」
「けれどそういうのって、望むと望まざるとに関わらず、人生には突然現れるんだよ。この人は自分の理解者だ、っていうような人」
「はぁ」
「君のお父さんもそういう人だった」
僕は顔を上げて続く言葉を待ったけれど、それきり何も続かなかった。
「このお寿司、美味しい?」
「東京にしては、まあまあですね」
僕は精一杯、そう言った。