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目を覚ました草苅はるかは微笑んで身支度を始める。すっかり筋肉が落ちてしまい、身体は言うことを聞かない。それでも身の回りを整える。穢れを覆い隠す消毒液のにおいの向こうに、はるかは太陽のにおいを嗅ぎ分ける。そうだ、これはいつか、あの坂道を登ったときのにおい。
草苅はるかは何も知らない。けれど、この後この病室に、大切な人がやってくるであろうことを、なぜだか知っている。
どうしてその人が、大切な人になったのだろう。考えてみれば不思議なものだ。これまで沢山の人と知り合ったはずだけれど、その人だけが特別だった。始めは、変な人だと思っていた。私とは違う、他の人とも違う、不思議な人。気になって、心配で、色々と関わり合ううちに、気付いたら特別になっていた人。だから、どっちが先だったったのか、分からない。草苅はるかは何も知らない。
そうしてその人が、病室の入り口に現れた。けたたましい音を立てて。
「はるか……!」
三卜八恵は、全力疾走の後で肩で息をし、汗で張り付いた前髪を払いながら、目を見開いていた。
その姿を見て、草苅はるかは肩を震わせる。
「ぷ……くく……」
でもすぐに耐えきれなくなって、声を上げて笑い始める。ずっと眠っていた肺に活を入れるみたいに、元気よく、底なしに笑う。何が起きたのかわからず、八恵は呆けたように突っ立っている。その顔を見て、はるかの笑いはまた止まらない。
「どしたの、はるか……」
「あはははは、だって、だって、おかしくて」
「なにが」
「……八恵も、走るなんてことがあるんだね!」
くくっ、とまだはるかは笑いを抑えきれない。
草苅はるかは嬉しかった。親友が、そこまで自分のことを心配してくれることが。そこまで必死になってくれることが。私はどこへもいくつもりなんてないのに、全速力でここに来てくれることが。
三卜八恵は引きつりながら愛想笑いを浮かべ、こわごわと言う。
「はるか。あの……」
「なに?」
「卵ハムチーズホットサンドって、食べたこと、ある?」
三卜八恵にいつものような余裕はない。答えを待つ手に自然に力が入り、全身がこわばっている。草苅はるかの肩が震える。
「く……くく……あははは」
また笑いだしたはるかにつられて、八恵も笑ってしまう。
「お嬢様だから、食べたことないかも!」
はるかがそう言って、吹っ切れたように二人で大笑いする。消えてないんだ。嘘じゃないんだ。無くなっていないんだ。二人は咳き込むまで笑う。親友の無事を確認して、安堵する。世界を祝福しながら、笑い続ける。
「ごめん」
笑い疲れた後で、八恵が言う。
「知っているのに、知ってしまったのに、言えなかった。はるかが消えてしまうんじゃないかって、不安だった。私の家で過ごした時間が、なかったことになってしまうんじゃないかって、怖くて。今更言い出せなくなって」
病室の窓から、梅雨入り前の最後の晴れ間が、遠く遠くに見えた。
「それなら私も同じ。八恵が消えてしまうんじゃないかって思って、ずっと怖かった。ずっと。けど、八恵もそう思っていてくれたなら、それだけで嬉しい」
三卜八恵は知りたくなかった。この安堵を、この幸福を、ズルをして予め知っているようなことがなくって、本当に良かったと思った。だからこの結末を、この気持ちを、日記には絶対に書かないでおこうと思う。
草苅はるかは何も知らない。けれどここに、大切な人がいることを、それだけ、なぜだか知っている。




