11
草苅はるかは何も知らない。
部屋をそのままにして出てきてしまって、今頃部屋の主である三卜八恵が慌てふためいていることも知らずに、ふらふらと歩いていく。まるで幽霊の後を追うように。離れてしまった魂を追うように。
彼女が追いかける幽霊。
消えたはずの少女。
忘れられた少女。
人間は倒れながら歩いているという話を思い出す。片脚を前に出して、重心を倒しながら身体を運んでいく連続運動は、バランスが崩れているという点では倒れていることに他ならず、それでいて地面に衝突しないのは、倒れきる前に軸足を変えているからというだけの理由なのだ。前を歩く彼女、深水瑞希の足取りは、本当に倒れ続けているような、それでいて決定的な転倒を踊りながら回避しているような、実体のない幽霊に見える。
だけどそれが幽霊ではない証拠に、彼女は草苅はるかと同じだけ歳をとって、背も伸びて、肩にかけたカメラも昔ほどは大きくない。消えたはずの少女は消えておらず、忘れられた少女はもう少女ではない。
「どこへ行くの……」
はるかの呼びかけにも彼女は曖昧な音でしか答えず、歩みを止めない。突然戸口に現れて「散歩をしよう」と言う彼女についてきてしまったことを、しかしはるかは後悔していない。その余裕もなく、混乱している。本当ならそれなりの広さがあるはずの部屋の片隅のほんの一部しか使えないみたいに、水面から口を出して水槽の隅に僅かに溜まった空気で呼吸するみたいに、混乱したはるかは考えを巡らせることが出来ない。清々しい朝に、本来なら通勤通学の人や車が溢れるはずが、なぜだか通りはしんと静かで、東京ではありえない霧が立ち込めている。世界には今、この二人だけしか存在していない。深水瑞希の足取りの先に目的地は無く、時折そのカメラで写真を取りながら、ただひたすらにこの街の霧を晴らしていくように、回転しながら進んでいく。はるかは突然、自分が部屋着のまま出てきた事に気づいたけれど、幸い靴はスニーカーで、これなら歩くのに支障はないと思う。
「久しぶりだね、はるか」
パシャリと写真を撮って、瑞希が言った。
「久しぶり、だね……」
はるかは夢遊病のように、ふらつきながら答えた。
「まず最初に。すごく今更なんだけれど。中学のときは、ちゃんと挨拶もできずにいなくなって、ごめんね。あのときの私は、学校の友達の事まで考えている余裕がなくって」
瑞希の左右非対称に切り揃えた髪を見て、はるかは未だに、これが現実なのかつかめずにいた。
「いろいろ大変なことはあったけれど、おかげさまでなんとか生きてるよ」
はるかは集中して考えることが出来ない。そんなことは珍しい。いや、それとも最近ではよくあることだろうか。
「仕事を、いや、どちらもバイトみたいなものだけれど、二つ掛け持ちして、なんとか生活できてる。しかも片方は趣味でもある。これね」
そういって瑞希はカメラを持ち上げた。
「もう片方はまあ、特殊な仕事だけれど、実入りは悪くない。それで今日は来たんだけれどね。相手がはるかだって知って、ちょっとびっくりしたけれど」
無量さんは仕事の振りが急なんだよな、と瑞希は一人つぶやいた。
「仕事……?」
突然私に会いに来たことが、仕事だというのだろうか、せっかくの再会なのに、とはるかはぼんやり考える。
「物語り」
瑞希が微笑んで言う。
「お話を聞かせてあげるっていう、仕事なんだ」
*
瑞希は語る。
これは昔の中国のお話。
衡州で役人をしていた張鎰という男に、娘がいた。もともと二人娘がいたが、姉の方は幼いうちに亡くなり、倩娘と名付けられた美しい妹が残った。張鎰には王宙という甥がいた。王宙は幼い頃より聡明で、張鎰は彼を高く評価していた。事あるごとに、倩娘を王宙の妻にさせよう、と張鎰は言っていた。
さて、時は流れ、王宙も倩娘も大きく成長し、二人は密かに想いあっていた。だが、張鎰はそれに気付いておらず、二人を結婚させようなどという話もいつしか忘れてしまっていた。あるとき、倩娘に縁談が持ち上がり、張鎰はこれを承諾してしまう。王宙は深く悲しみ、密かに張鎰を憎んだが、どうにもしようがない。家族の反対を押し切り、官吏になる試験を受けるという口実で、家を出て都へ向かうことにした。王宙が故郷を出立した最初の晩、しかし何者かが、闇夜の中を驚くべき速さで追ってくる。人影に誰何すれば、何とそれは倩娘であった。王宙は驚きながらも喜び、その手を取って事情を聞けば、倩娘も涙ぐんで言った。
「夢の中でもずっと、貴方の愛を知っておりました。いま、父は私の気持ちを奪ってしまおうとしますが、貴方の愛情の深いことの変わらなさを思って、その気持ちに応えようと、家族を棄てて身を捨てて、こうして参ったのです」
王宙は思わぬことに有頂天になって喜び、そのまま倩娘を伴い、都へと逃げた。
さて、それから五年の月日が流れた。二人の間には息子も生まれ、幸せな日々を送っていた。
しかし、故郷の張鎰とは音信不通のままであった。倩娘はいつも両親を想っていたが、あるとき夫に嘆いて言った。
「かつて私は、両親を裏切って貴方のもとに参りました。もう五年も経つというのに、父母との往来は絶えたまま。どのような顔をしてただ生きていけば良いのでしょうか」
王宙はこれを可哀想に思って、二人で故郷に帰ることにした。
故郷につくと、まず王宙が一人で張鎰の元へ行き、駆け落ちしたことを率直に詫びた。しかし、張鎰は驚いて言う。
「倩娘は病に倒れ、床に伏すこと数年になる。どうしてそのようなでたらめを言うのか」
「いえ、倩娘は私と共に連れてきております。実際に今、船の中におります」
張鎰は訝しんで、使いの者を走らせて確かめさせる。使いの者が船の中を覗けば、果たしてそこにいるのは倩娘である。倩娘は微笑んで、お父様はお元気ですか、などと尋ねる。使いは大いに混乱し、慌てて張鎰のもとへ戻ってこれを報告した。
さて、それを漏れ聞いた病床の倩娘は喜んで起き上がり、身支度を始めた。こちらもにこにこと微笑むばかりで何も言わない。やがて彼女が部屋から出ていくと、帰ってきたもう一人の倩娘と向かい合い、周囲の人が驚き呆然とする中、ぴったりと合わさって一体となり、その服だけが二重に重なっていたという。
「……不思議なお話ね」
草苅はるかはそう言った。草苅はるかは何も知らない。
物語を終えた瑞希は、絶品チーズバーガーを頬張って言った。
「絶品ね、これ。ハンバーガーって初めて食べたわ」
「お嬢様か」
家を出て適当に歩いたは良いが、休憩が必要だと言うので適当に入った店がロッテリアだった。けれどもここは、草苅はるかの知っているロッテリアとは違って、店員には顔がないし、他の客たちも霞のようだ。不思議な鈴の音のようなBGMが流れている。草苅はるかは何も知らない。
「ねえ、聞いてもいい?」
「どうぞ」
瑞希は絶品Wチーズバーガーを頬張りながら答えた。食べるのが速い。
「患っていた方の倩娘は、何が嬉しかったのかしら」
五年ぶりに故郷に戻ったもう一人の自分。おそらくは、自分から抜け出していった霊魂。その帰還を知った彼女は、喜んで起き上がり、いそいそと身支度をする。彼女はどんな思いで自分自身を迎え入れたのだろう。
瑞希は絶品ベーコンチーズバーガーを頬張りながら答えた。
「そもそも彼女が患っていた病って、魂が肉体から離れてしまったから、バランスが崩れた、そういう状態だよね。もう一人の自分が帰ってきたなら、単純にそれが解決する。病気が治るってことだよ。さらには想い人であった王宙が夫なんだ。喜んでも不自然じゃないでしょう?」
「そうかも知れないけれど……」
草苅はるかは腑に落ちない。草苅はるかは何も知らない。
瑞希は絶妙バーガーを頬張りながら言った。
「それが気になる?」
「私はさっきから貴方がいくつバーガーを食べているのかも気になるわ」
瑞希は濃厚6種チーズの絶品チーズバーガーを頬張りながら言った。
「語るのにはエネルギーが必要だからね。補給しなきゃ」
「よくそんなに食べられるわね」
「形而上のバーガーは胃もたれしないんだ」
草苅はるかは理解できない。
「経費で落ちるしね」
瑞希は絶妙BLTバーガーを頬張りながら言った。
朝だと言うのに月の光が降り注ぐ。銀白色の粒子を浴びて、翅の生えた瑞希の身体はいよいよ軽そうだ。さっきあれだけ食べたとは思えない。そういえばはるかは、何も食べなかった。部屋に残してきたトーストのことが一瞬思われ、けれどすぐに瑞希の姿を目で追うのに夢中になって、トーストのことは忘れてしまう。瑞希の肌の奥の血管が輝き、右側だけ伸ばした髪は、水を吸って揺らめいている。喪われたかと思ったものが現出した驚きと喜びと、もう取り返しのつかない疎外の悲しみに覆われて、はるかは夢中でシャッターを切る。新雪を踏みしめながら、いつの間にか手にしたカメラは、ファインダーを幾重覗いても宇宙の果てに届かない。草苅はるかは何も知らない。世界と瑞希の霧を晴らすように、はるかは夢中でシャッターを切る。
「一緒に写真を撮りに行こうって、言ってたね」
瑞希が言う。反転する。瑞希のファインダーの中に収められたはるかは、ぼんやりと考えている。
「ずいぶん遅くなっちゃったけど、今日は会えてよかった」
「うん……」
はるかは頷いて、そう言うのがやっとだった。
「でも中学生の頃より、今のほうが私は写真が好き」
「どうして……?」
「あのとき、周りの友達は皆お互いを騙してるみたいなことを、私言ったでしょう?」
露出を上げてみる。
「どうしてだろう、もうそういうの、つらくなくなっちゃった」
もう少し絞ってみる。
「だからね、誰かのシャッターチャンスを狙う、っていうことが、つらくなくなったの」
しゃがんでみたりして、角度を探す。
「別に、何かきっかけがあったわけじゃなくて……きっかけになりそうなイベントなんて、山ほどあったのに、そのどれもがピンとは来なくって。だけど」
どうしてだろう、その一瞬が、捉えられない。
「隙を狙ってるなんて、思わなくていいんだって」
草苅はるかは夢中でシャッターを切る。けれど写真は一枚も撮れていない。
「さっきのお話。離魂記、っていうんだけれど」
二人はいつの間にか、たどり着くべき場所にたどり着いている。顔のない人々が動き回る。草苅はるかは何も知らない。この病院に、自分が入院していることも気付いていない。
「私はあのお話は、患っていた方の倩娘が再開を健気に喜んでいたことに救いがあると思うんだ」
深水瑞希は言った。
「患っていた方の倩娘は、抜け出した霊魂に置いていかれて病に倒れて、ずっと臥せるばかりだった。五年間、駆け落ちした方の倩娘が王宙と幸せに暮らして、子供まで作っていたのに、自分はずっと閨のなか。はるか、君はこう思ったんだよね。患っていた方の倩娘は、駆け落ちした方の倩娘を妬みはしないのか」
深水瑞希は歩き始める。草苅はるかはそれを追う。ふらふらと、ゆらゆらと。夢遊病のように。離魂病のように。草苅はるかは何も知らない。
「患っていた方の倩娘は、抜け出した倩娘のことを妬んではいないし、その帰りを幸せに受け入れたんだよ」
だからきっと君も、大丈夫。
「またそのうち、元気になったらご飯でも行こうよ」
瑞希はそう言って手を振った。
「だって私達、大人になったもの」