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「藍ちゃん、着替えここに置いておくから、嫌じゃなかったら使って。Tシャツは新品だし、パジャマも一応クリーニングしてあるから」

 拓郎は風呂場の曇りガラス越しに声を掛けて、用意した着替えを脱衣かごに置いた。下着はさすがにどうしようもなかったが、着たきり雀よりはましだろう。

「あ、はい。すみま……」

『すみません』と言いそうになって、慌てて『ありがとうございます!』と言い直す藍の様子に、思わず口の端が上がる。

 つくづく不思議な娘だなと思う。

 幼女のような純粋さで、警戒心なんかどこ吹く風で、するりと自分の心の中に入って来てしまった不思議な少女。

 拓郎は有る意味、特殊な環境で育っていて、人間を簡単には信用しない。どんなに善人の皮を被って近付いてきても、その人間の本質を見抜ける自信も、二十七才になった今ならば、少しはあった。

 人間が嫌いというわけではないが、人間不信に近いものがあるかも知れない。だから、仕事以外で敢えて親しい人間を作ろうとは思わなかった。当然、自分のアパートに他人を上げる事は滅多に無い。

 今は居ないが、それが付き合っている『彼女』であっても、同じだ。

 でも。

 クスリと笑いが漏れる。

 こうして、藍はここに居る。

 拓郎の作ったインスタントラーメンを美味しそうに頬張り、今は久々のバスタイムを満喫しているのだろう。

 それを、微笑ましく思う自分が居る。

 本当に、不思議な娘だ――。



 バス・タイムも終わり、コタツでホットココアを飲みながら初めてだというTV放送を、『驚きの連続』で見ていた藍が、こくりこくりと船をこぎだした。

 さすがに、疲れたのだろう。正直、拓郎も疲れていた。

 明日は仕事で朝が早いし、もう自分も寝なくては。

「じゃあ、俺はこっちの板の間の方に寝るから、君はこのベッドを使って」

 拓郎が、リビングスペース横にある、寝室として使っている六畳の和室に藍を案内して、ベットに寝るように促すと、「え?」と、藍が驚いたように、頭一つ分高いところにある拓郎の顔を見上げた。

 やっぱり他人の、それも男が使っているベットで寝るのは抵抗があるのだろう。

 でも、この家には他に布団類は毛布くらいしか置いていないし、この時間では、おばさんの所に借りに行く訳にもいかない。

 まあ、今日の所は我慢して貰うしかない。

「あ、一応、シーツとカバーは換えといたからね」

 拓郎が、押入れから薄い毛布一枚を取り出し『んじゃ』とリビングに足を向ると、慌てた様子で藍が走り寄ってきた。

「あの、じゃあ、芝崎さんはどこで寝るんですか?」

 ――ああ、なんだそっちの心配か。

 どうも藍の反応は、拓郎には予想が付かない。

 今どう感じているのか、感情の変化はストレートに表情に出るので至極分かりやすいのだが、その後どういう思考経路でどういう事を言い出すのか、全く予測が付かないのだ。

 まるで、びっくり箱みたいだな。

 藍の真っ直ぐな瞳を見やって思わず、苦笑する。

「俺は、コタツで寝るから大丈夫。普段でも良くやるんだ。遠慮しないでベット、使って」

 拓郎の言葉に、藍がギュっと眉根を寄せた。

「んじゃ、お休み」

 何となく不穏な空気を察知した拓郎は、そのままそそくさと部屋を出て襖を閉めようとした。

 が一瞬早く、その拓郎の腕を藍が『むんず』と掴んだ。

「わ! なに? どうしたの?」

 正に予測不可能な藍の行動に不意打ちを食らった拓郎はずっこけそうになり、慌てて藍の顔を覗き込む。

『必死なんです』と書いてありそうな、大きなライト・ブラウン瞳に至近距離で見詰められて、 思わずドキンと鼓動が跳ねる。

「ベッドで一緒に寝ましょう! その方が、暖かいです!」

「……は?」

 爆弾発言投下に、拓郎の動きがピタリと止まった。

 一緒に……寝る?

 って言ったよな、今。

 ぱちぱちとぱちと、ゆっくり瞬きをする間拓郎は、藍の言葉の意味を理解しようとした。理解しようとしたが、理解不能だった。

「……それは、いくら何でも、マズイでしょう? 一応これでも、男だからね」

 ――冗談じゃないぞ、おい。

 真面目に、お縄頂戴はゴメンだ。

 ははははっ、と引きつり笑いをしながら行こうとするその腕を藍が、はっしと掴む。

「でも、風邪を引かれては私が嫌です。困ります、ここに居て下さい。私、気にしませんから!」

 華奢な手で腕をぎゅっと掴まれた拓郎は、無理に振りほどくことも出来ずにその場に固まった。

 ――いや、俺が気にするんですけど……。

 今までの行動を見てきて、これは藍が自分を女として誘っているのでは絶対無いということは分かる。

 いっそそうなら、『冗談言うなよ』と跳ね退けられるのに――。

 その瞳に宿るのは、純粋に拓郎の身を案じる善意。

 拓郎は軽い目眩を覚えて、何者かに救いを求めるように板張りの天井を仰ぎ見た。

 悲しいかな、その気が無くても、その気になるのが男のサガと言う物なのだ。

 別に、藍をどうにかしようという気は毛頭ないが、拓郎も一般的ではないにしろ、二十七歳の健康な男だ。同じ部屋に、それも狭いセミダブルのベットに、いくら十歳も下だとて『女の子と一緒に寝る』と言うのはちょっと、いや、かなり困った状況だった。

「でなければ、私がそちらで寝ます!」

 どうしたものかと途方に暮れる拓郎に、情け容赦ない藍の追い打ちが掛かる。

「え……っと、その、あの……」

 何か気の利いた言葉を言おうとするが、あまりの事に脳細胞が付いていかず見事に何も浮かばない。

「芝崎さん!」

 儚気な最初のイメージとは違い、思いのほか頑固で引きそうになかった。

「……分かった。そうするよ」

 アウトドア慣れしている自分ならともかく、藍ではそれこそ風邪を引いてしまうだろう。

 頭をかきかき戻る拓郎に、邪気のない笑顔が向けられる。

 ――これは、ちょっと困ったぞ……。

 内心では焦っていた拓郎だが、おくびにも出さず黙々と寝る準備を整えた。

 戸締まり、火の元、火の用心。

 二度も同じ確認をするともうする事がなくなる。明日は早出の仕事が入っているから、さっさと寝たいのはやまやまだった。

 だが――。

 六畳の部屋にセミダブルのベット。

 いつもは、何とも思わないこの風景がいっそ恨めしく映った。

 寝室に戻ると藍は既に、ベットの端に体を寄せて横になっていた。顔にはニコニコと邪気のない笑顔。

 色即是空。色即是空。

 拓郎は心で密かに、信じてもいない仏教用語を唱えた。

「じゃあ、お休み」

 せめてダブルベットなら……。

 パチンと電気を消すと、あまり建設的でない考えを頭から追い出して、観念してベットに潜り込む。

「おやすみなさい」

 やけに弾んだ楽しげな声が返って来る。

 しばらくすると、よほど疲れていたのだろう、スヤスヤと気持ち良さそうな寝息が聞こえて来た。背中に感じるほんわか温かい体温が、なんともこそばゆい。

 悪夢だ。

 悪夢意外の何物でもない。

 きっと、どこぞの悪戯な神だか小悪魔だかが、自分を陥れようとしているに違いない。

「はぁー……」

 拓郎は長ーいため息を、吐き出した。



 翌朝、六時を回った頃、拓郎は予定より少し早めに部屋を出た。

 アパートの隣住んでいる『おばさん』の所に寄って、藍のことを頼んで行くためだ。

 おばさんこと、佐藤君恵さとうきみえは、このアパート『サン・ハイツA』の大家であり、拓郎の死んだ母親の親友でもある。

 ちなみにアパートはAからGまで七棟あり、他にも沢山のテナントを所有している。彼女は、いわゆる『大地主』なのだ。

 年齢は、『女性に年を聞くものじゃないわよ』と、聞いても教えてくれないので不明だが、おそらくは五十代前半。体格と同じに、おおらかで懐の広い女性なので、彼女なら藍の事も快く引き受けてくれるはずだ。

 拓郎が部屋を出るとき寝室を覗いたら、、藍はまだ良く眠っていた。

 その、まだあどけない幼子のような安心しきった寝顔を見ていたら、『一緒に寝よう発言』で、思わずどぎまぎしてしまった自分の未熟さが、少しばかり恥ずかしくなった。

「修行がたりないな」

 苦笑混じりに呟きつつ、車のトランクにカメラ機材を積み込み、アパートの隣の敷地に建っている大家邸に足を向ける。

 それにしても。

 己の内に生まれたこの不思議な感情は、いったい何だろう?

 言葉にするならば、『ほんのり温かい感情』。

 例えは悪いが、迷子の子猫を拾ったときに感じる『保護欲』、それが一番近いかも知れない。

 確かに、今時には珍しいくらい、素直で純粋な感のある少女ではある。

その「妖精的なイメージ」に被写体として、強烈に引き付けられた。でなければ、あんなにモデルになって貰うために粘ったりはしない。

 純粋な「被写体」としての興味。

 それだけだ……。



 そんなことをつらつらと考えながら、勝手知りたる何とやらで、大家邸の裏門から入り、生け垣を抜けて庭に出た。

 立派な日本建築の二階建ての母家の前。

 手入れされた庭木に囲まれて、いつもの日課通り五歳になる孫娘のめぐみと一緒に『朝の体操』をしている君恵に、「おはようございます」と声を掛ける。

「あら、おはよう。芝崎君、今日は早起きね」

「あ、拓にーちゃんだぁ!」

 身内の居ない拓郎にとっては、唯一家族のような存在である大家の佐藤一家。祖母と孫娘は、よく似た屈託のない笑顔を拓郎に向けてくる。

「メグちゃん、おはよう。ずいぶん体操、上手になったね」

 恵の目の高さに自分の視線を合わせ、くりくり天然パーマの柔らかい髪を撫でてから拓郎は、「実は、お願いがあるんですが……」と、君恵に話を切りだした。



「家出少女が部屋に居る!?」

 拓郎の説明に、君恵は驚いたように目を見開いた。

 驚くのは当たり前だ。店子が勝手に他人を住まわせたら、大家としては面白いはずがない。

「ええ……まあ、そうなんです」

 拓郎は思わず口ごもった。

「へぇ、芝崎君の部屋に、女の子がねぇ」

 だが、驚いた表情の次に君恵の顔に浮かんだのは、ニヤリと意味あり気な笑いだ。

「また、猫ちゃんでも拾ってきたのかと思えば、女の子!」

 拾った……。

 それを言われると、拓郎は恐縮するしかない。

 仕事先で二度ほど『拾い猫』をしてきて、君恵に引き取って貰った『前科』があるのだ。

 アパートはペット飼育可なので自分で飼うつもりだったのだが、如何せん家に居る時間が少ないため、結局『家で引き取らせて』という君恵の申し出に甘えてしまったのだ。

 小さくて今にも死にそうだった子猫たちは今、立派な大猫に成長して佐藤家の縁側を占領している。

 一度ならず二度……いや、今度で三度目か。

 我ながら、進歩がない――。

 根が甘ちゃんなんだよ、お前は。

「いつも、ご迷惑かけてしまってすみません」

 拓郎は、ペコリと頭を下げながら自嘲気味な笑いを自分に向けた。

「何言ってるのよ、水くさいこと言いっこなしよ。それにしても、女の子をねぇ……」

「女の子、女の子ーっ♪」

 ニヤニヤ笑いが、孫娘にも伝染する。

「芝崎君が女の子を自分の部屋に連れて来るなんて、初めてのことだもの。これは早速どんな娘だか見に行かなくちゃだわね」

 君恵は、恰幅の良い身体を揺らして笑う。

 なにか、誤解されているな。

 拓郎はそう思ったが、快く引き受けてくれてホッと安堵してもいた。

 普通なら、迷惑がられても仕方がないのだ。

 君恵の人の良さに付け込んでいる自分に、少し罪悪感を覚えないでもない。

 でも、こうして甘えられる場所が在ることは、たぶん幸せなことなのだと、拓郎はそう思った。



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