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   撮影会 2

 拓郎が、撮影機材を車のトランクにしまい、変わりに手のひらサイズのデジタルカメラを持って展望台のテラスに戻ったとき、目の前には不思議な光景が繰り広げられていた。

 展望台のテラスにある、ベンチに座る藍。それはさっきと何も変わらない。問題は、藍の様子だ。

 藍は紙コップを持った手つきのまま、空を掴んでいる。その手に持たれていたはずの紙コップは、藍の足下のグレーのタイル張りの床に茶色いマーブル模様を描いていた。要は、まださほど飲んでいないだろうココア入りの紙コップを、落とした状態のまま固まっていたのだ。

 何してるんだ?

 訝しげに近付くと、その原因が見えてきた。思わず、クスリと笑いの衝動がこみ上げる。

「藍ちゃん、どうしたの?」

 のんびりと声を掛けると、藍は動けないまま情けない声を上げた。

「し、芝崎さん! こ、これ、どかして下さいっ!」

「珍しいな。ヒマラヤンのノラ公か?」

 拓郎は、藍の金縛りの原因を、ひょいと藍の膝の上から抱き上げた。

 拓郎に抱きあげられて、不服そうに鼻をヒク付かせているのは、体重が5キロは越えているだろう丸々と太った大猫・ヒマラヤンだった。

 シャム猫の毛色を持った、ブルーの瞳の長毛種のペルシャ猫。首輪を付けていないので拓郎は『ノラ猫』だろうと判断したが、その体には栄養が行き渡り身がみっちりと入っていた。

「お前、良く肥えてるなー」

 がしがしと猫の頭を撫でながら笑いかけると、藍は、はーっと安堵の溜息を漏らして、やっと全身の力を抜いた。

 いったい何分間『だるまさんが転んだ状態』だったのか。余程、緊張していたのだろう。浮かべた笑顔が、まだ引きつっている。

「もしかして、猫、苦手だったりする?」

「苦手じゃないですけど、触ったことがないんです。だから……」

「怖いんだ?」

「はい……」

 藍は、さも怖そうにコクンと頷く。

 確かに、普段動物に触り慣れていない人間には、このジャンボ猫は迫力がありすぎるかもしれない。まあ、膝に飛び乗ってくるような猫は人に慣れているから、余程の事が無い限り、噛みついたりはしないだろうが。

「お前、怖いんだってよ」

 笑いながら拓郎が顔を近づけると、猫は『大きなお世話だよ』と言わんばかりに、澄んだ青い瞳でぎろりと拓郎を睨み上げた。

「まあ、ふてぶてしい顔はしてるけどな」

 ほら。と、地面に放された猫は「ブミャウッ!」と一鳴きして、再び藍の膝の上に飛び乗ってしまった。再び瞬間冷凍状態に固まる藍の方を向いて、気持ちよさそうに喉をゴロゴロ鳴らしている。

「どうやら、気に入られちゃったみたいだね。嫌じゃなかったら頭を撫でてごらん。喜ぶよ」

 拓郎に言われ、藍は、怖々と言った様子で猫の頭に手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、微かにビクついたが、危険がないと分かるとそっと撫で始める。すると途端に、猫が喉を鳴らす音が倍の大きさに変わった。

『ぐるぐるぐるにゃん!』

 まるで、節を付けてハミングしているように聞こえる。

 藍の表情が、見る間に明るいものに変わっていく。まるで、宝箱を発見した幼い少女のように、キラキラと瞳を輝かせている。

 ――分かり易い娘だな。

 拓郎の口の端が、思わず上がる。

 藍は年に似合わず、心の動きを素直に表情に出す。それは実に分かり易く、単純明快で裏表がない。都会に暮らし慣れた拓郎には、それは新鮮でとても好ましく映った。

「あ、あと、あごの下も撫で撫でポイントだから」

 藍は言われるままに、あごの下をこちょこちょ撫でててみる。猫は撫でやすいようにクイッと喉を上げて、気持ちよさそうに目を細めた。

 正に恵比寿顔。

 幸せそうなその顔は何だか笑っているように見えて、拓郎と藍は顔を見合わせてクスクスと笑いあった。




「今日は、一日お疲れさま。お陰でいい写真が出来そうだよ。ありがとう。こんな時間まで悪かったね」

 拓郎のその言葉で、藍の『一日モデル』は終わりを告げた。

 結局あの後、大きなカメラの代わりに持ってきたコンパクトカメラで撮影を続たのだ。

 小さなカメラは藍を緊張から解き放ち、まずまずの成果が上がった。何枚かは納得の行く出来になるはずだと、拓郎には自信があった。

 今はもうすっかり日も陰り、賑やかだった公園も人影がまばらになっている。

 公園の展望台から見える薄闇に浮かぶ港の風景は、夜明け前とも昼間とも違う表情を見せていて、キラキラ輝く町の灯りは満天の星空を思わせた。

 二人の吐く息が白い。かなり気温も下がってきていた。

「お昼までご馳走になってしまって、すみませんでした」

 藍が、ぺこりと頭を下げる。

 もうこれで、さよならか――。

 言いようのない感覚が、拓郎を包む。

 なんで、こんな気持ちになるんだろう?

 拓郎は、自分の気持ちが不可解だった。

 たまたま思い立ってここに写真を撮りに来た自分と、たまたま居合わせた藍。

 二人は今日、偶然出会ったに過ぎない。明日になれば、お互い思い出すこともなく過ごして行けるはずだ。なのに、なんでこんなに別れがたい気持ちになるのか、良く分からない。

「はいこれ、バイト代。少なくて申し訳ないけど……」

 拓郎が差し出した茶封筒を、藍は嬉しそうに受け取った。

 本当はもっと弾んでやりたかったが、如何せん拓郎には持ち合わせがなかった。

「あの、一つお願いがあるんですけど……」

 おずおずと、藍が口を開く。

 その瞳が、街灯の明かりを反射してキラキラと輝いた。

「なに? 俺に出来ること?」

「あの……。向日葵畑の写真、頂いてもいいですか?」

「ああ、あれ。気に入ってくれたんだ?」

 そう言えば、ずいぶん熱心に見ていたっけ。

『喜んで』と拓郎は、荷物の中から写真を取り出した。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 藍は大事そうに、写真を唯一の荷物のサイドバックにしまうと、もう一度深く頭を下げて別れの言葉を告げた。

「……さようなら」

 声が震えているように聞こえるのは、寒さのせいだろうか。

 そんな事を考えながら、拓郎も「さよなら……」と、別れの言葉を告げる。

 藍は、顔を上げてどこかぎこちない笑顔を浮かべると、そのまま一歩、二歩後ずさった。

 二人の距離が、ゆっくりと離れていく。

 そして藍は、意を決したようにクルっときびすを返して、夜の街へと歩き出した。

 離れていく、小さな影。

 あまりに華奢なその影は、夜の闇に溶けて消えて行きそうに儚い。

 いいのか?

 このまま、別れてしまって、いいのか?

 そう思うと同時に、拓郎の口から言葉が飛び出していた。

「藍ちゃん!」

 シンと静まり返った公園に、拓郎の声が響き渡る。

 ――俺は、何をしようとしているんだ?

 非常識も良いところだ。

 正直、そう思った。だが――。

 ゆっくりと振り返った藍の顔を見た瞬間、そんな理屈はどこかへ消えてしまった。

 藍の頬に光る綺麗な光の粒。

 あんなものを見てしまったら、放ってはおけない――。

「泊まる所がないんなら、取りあえず俺の所に来るかい? あまり綺麗とは言えないけど、宿泊無料で夕飯付き!」

 見開かれた藍の瞳に、驚きと確かな喜びの色を見付けて、拓郎は純粋に嬉しかった。

 それが、行く当ても無いのだろう藍に対する、単なる同情心から出た言葉だと拓郎自身もよく分かっている。

 だが、このまま藍と別れずに済むことが嬉しいこの気持ちもまた、偽りのないものだった。 



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