出会い 2
「あの……」
困ったように呟く少女の声には、明らかに迷いの成分が含まれている。
「お願いします!」
だめ押しとばかりに、拓郎は頭を下げたまま声を重ねた。
じりじりと、沈黙の時が流れていく。
「……分かりました。お話を聞きます」
根負けしたような小さい声が頭上から降ってきて、拓郎はばっと顔を上げた。
「でも、モデルは出来ません。それでもいいなら……」
小さいがはっきりとしたその声に、拓郎は少女の『意志の強さ』のようなものを感じ取った。じっと、少女の茶色の瞳を覗き込む。
まずは第一歩。
話を聞いて貰えれば、説得する自信はある。
「ありがとう」
拓郎はそう言って、緊張気味に自分を見返す少女に、こぼれ落ちそうな笑みを向けた。
拓郎は今まで、風景写真が専門で人物は撮らなかった。いや、『撮れなかった』と言った方が正しい。どんなに美しいモデルでも、その内にあるドロドロした醜い感情が写真に表れて来るようで、どうしても人物を撮る気にはなれなかったのだ。それを人間としての『甘さ』だと言う者もいたが、『撮りたくないないものを撮らないで良い権利』はあるはずだと、拓郎は思っていた。
だが決して『人物を撮ること』に興味がない訳ではない。
拓郎がカメラマンになろうと決意したとき、粘りに粘って師事することが出来た写真家の黒谷隆星は、風景写真の第一人者だが、人物写真でも定評がある。流星の人物写真は、確かに心を揺さぶられる素晴らしいものだ。いわば人間の清濁両方を写真に写し出す。
それが人間としての円熟味を表したものか、才能のなせる技か、おそらくはその両方だろうが、拓郎にはまだ備わっていないものだ。その自覚がある拓郎は、もしも『これだ!』と思える被写体が現れれば、撮ってみたいと思う気持ちもどこかにあったのも確かだ。
そして今初めて、心底『撮りたい』と思える被写体が目の前に現れたのだ。
千載一遇のチャンス。
一度や二度断られた位で、『はい、そうですか』と、簡単に諦める訳にはいかない――。
拓郎は、必死だった。
公園の近くにある二十四時間営業のファミリー・レストランは、朝早いこともあってか、客が一人もいなかった。
拓郎は店の入り口近く、窓際の四人掛けのテーブルに少女と向かい合って座ると、二人分のコーヒーを頼んだ。
デイ・バックから、写真を取り出し、おもむろにテーブルの上に広げ始める。
「こういう写真を撮っているんだ」
ちょっと照れつつ説明をしながら、一枚一枚少女に見せて行く。
「うわぁ、綺麗――」
少女が感嘆の声を上げた。
その大きな茶色の瞳いっぱいに、写真の風景が映し出される。
道ばたの小さな野の花。
海に沈む夕陽。
薄紫に浮かぶ街並。
綺麗なだけの写真ではない、温かい優しい風景――。
その写真を撮った者の人間性を伺わせるような、そんな写真だった。
「これは、けっこう自分でも気に入ってるんだ」
拓郎が最後にテーブルの上に出したのは、他よりも一回り大きなサイズのパノラマ写真。その写真に、少女の目が釘付けになる。
それは、一面の向日葵畑の写真――。
抜けるような夏の青空の下に揺れる、何処までも続く大輪の黄色い花の群れ。
真っ直ぐ『凛』として太陽を見詰めている、強い強い夏の花。
少女は食い入るように、その写真を見つめている。
――どうやら、興味を持ってくれたようだ。
「それで、モデルの事なんだけど……」
拓郎は、意を決して話を切り出した。
「別に雑誌に載せようとか、そう言うんじゃないんだ」
チラリと、テーブルの上の写真に視線を走らせる。
「見ての通り、俺は風景写真が専門なんだけど……」
視線を少女の瞳に戻すと、そのまま真っ直ぐ見詰めて言葉を続ける。
「でも君を見た時、初めて人物を撮りたいって思った。今、もし撮らなかったら一生後悔するような気がする……」
そこまで言って少し言葉を切ると、自分の言葉を否定するように「ううん」と軽く頭を振った。
「いや、違うな。単に君が撮りたいんだ。変な意味じゃ無い。この風景を撮りたかったように、君の写真が撮りたいんだ」
拓郎は、真っ直ぐと少女の目を見て話す。その心の内にやましさは微塵も無い。その言葉通り、ただこの少女の写真を取りたかった。
それが伝わったのか否か。拓郎の言葉にじっと耳を傾けていた少女が、その真意を量るかのように、真っ直ぐな視線を拓郎に向ける。
邪な考えを持つ者は決して直視できないだろう、邪気のない視線。それを拓郎は、目を逸らさずに受け止めた。
「一日だけでもいいのなら……、お引き受けします。でも、公の場に写真が公表されるのは困ります。それだけ約束して下さい」
まだ迷いが有るように、揺れる少女の瞳。それでも、目をそらさずに話す真摯な態度に、拓郎は少なからず感銘を受けた。
――今時の若い子には珍しい、礼儀正しい娘だな。
外見には似合わず、以外と古くさい価値観を有する拓郎は、『人と話をするときは、相手の目を見なさい』と言う小学校以来の教えを、忠実に実践していた。
と言うよりも、単なる性分なのだが。
「ありがとう!」
拓郎の向ける笑顔に、少女が初めて微笑みを返した。
それはまるで、小さな野の花が密かに固い蕾を開いていくような、そんな可憐さがあった。