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   淡雪 3


 アパートの玄関ドアを開けた瞬間、そこに藍の姿がないことに違和感を覚えて、拓郎は眉根を寄せた。

 動物病院に行くために、すぐに出かけられるように用意して待っているだろうと思っていたのだ。

「藍ちゃん?」

 声を掛けるが、返事はこない。

 半畳ほどの狭い玄関を入れば、そこは約十二畳ほどの洋間のLDK。

 左手のキッチンスペースから突き当たりのコタツが置いてあるLDスペースへと視線を巡らすが、電気は付いているのに部屋の中はしんと静まりかえっていて、藍の姿は何処にも見えない。

 ここの間取りは1LDK。

 残る部屋は、奥の寝室として使っている六畳の和室しかない。

 もともと男所帯の味気なかった部屋の中は、藍の好きだという彼女お手製の淡いイエロートーンのカーテンやクッションカバーが、彩りを添えている。

 いつもなら、ほっとするような空気が流れている部屋の中は、どこかピリピリと空気が張り詰めている気がした。

 拓郎はそこに、藍の元気な笑顔が無いからだと気付く。


 それにしても、大邸宅じゃないのだから、奥の部屋に居たとしても拓郎の声が聞こえないはずはないのだが。

 ――もしかして、待ちきれずにタクシーででも行ったのだろうか?

 でも玄関には、藍が普段履いているスニーカーがキチンと揃えられて置いてあるから、居るはずだ。

「藍ちゃん、和室にいるのか?」

 拓郎は胸の奥がざわつくのを感じながら、玄関で靴を脱ぎ寝室へと足を向けた。

「藍ちゃ……」

 半開きの襖から部屋の中を覗き込んだ拓郎の足が、一瞬止まる。

 薄暗い六畳の和室。

 藍は、窓際に置いてあるセミダブルのベットの上に拓郎の方を向いて、うつむき加減で静かに腰掛けていた。

 膝の上の毛布にくるまっているのは、しらたまだろう。

 猫用に買った子供用のミニサイズの毛布の間から、小さな三角の白い耳が顔を覗かせている。

 ――ずっと、膝に抱いていたのか。

「藍ちゃん、ただいま。君恵おばさんの所の掛かり付けの獣医さんを知っているから、そこに『しらたま』を連れて行こう」

 部屋の入り口から話しかけたが、尚も藍は動こうとしない。

 まるで無反応だ。

「藍ちゃん?」

 ただならぬ雰囲気を感じた拓郎は、慌ててベッドサイドに歩み寄った。


「どうした? しらたま、そんなに苦しそうなのかい?」

「……」

 拓郎の呼びかけに藍は、無言のまま、ノロノロと顔を上げた。

 言葉に反応したと言う風ではなく、『心ここにあらず』な何処かぎこちないその動きに、拓郎の胸のざわめきが大きくなり始める。

 藍の顔には、表情がなかった。

 言葉にするなら、ただ『呆然』としていると言うのが近いかもしれない。

 拓郎は今まで、藍のこんな生気のない瞳を目にしたことがない。

 ――まさか。

 拓郎は、藍の膝の上で大事そうに毛布にくるまれた、白い子猫の頭に手を触れた。

 ――温かい。

 だがこれは、子猫の体温の高さではない。

 子猫の体温にしては低すぎるのだ。

 半開きの青い瞳には、それこそ生気が宿っていない。

 拓郎は手のひらを、しらたまの鼻面にあて、それから胸の辺りに手を滑らせた。

 息をしていない。

 いつも忙しなく上下していた小さな胸も、ただ静かに沈黙している。

 ――なんてこった。

 もう、獣医は必要なくなってしまった。

 すでに、小さな命の炎は燃え尽きていたのだ。

 この体温からすると、おそらく電話で話してからすぐに死んだのだろう。

 せめて、俺が帰るまで待っていてくれれば、藍一人に見取らせるなんて事をさせずにすんだものを……。

 こうなるかもしれないと予想していたのに。

 こんな事なら、君恵おばさんに電話をして、様子を見に来て貰えば良かった。

 拓郎は、自分の読みの甘さに、舌打ちしたくなった。


 起きてしまった事は、重大な事であるほど大抵が取り返しは付かないのだ。

 藍の始めてのペットは、引き取られてわずか一週間足らずでその短い生を終えた。

 死んでしまった。

 例え残酷な事でも、それが現実だ。

 藍は、その現実を受け入れられずにいるのだろう。

 自分の膝の上で、一つの命が失われたのだから無理もないが、辛いからと現実を認めて受け入れないなら人は前に進めない。

 そして前に進む為に、人には必要な儀式があるはずだ。

 拓郎は、藍の隣に腰掛けると、藍の膝の上のしらたまに視線を注いだまま、静かに口を開いた。

「藍ちゃん、悲しい時は泣いていいんだ。我慢することないよ」

 人は、悲しみに涙し、その涙と共に辛い現実を心の中から洗い流していく。

 それは、逃避すると言うことではなく、心を正常に保とうとする自己防衛本能のようなものだ。

 だから、子猫の死を前にして涙を流せない藍は、心にその痛みや苦しみをため込んでしまっている。

 こういうとき、人は泣かなくちゃいけない。

 我慢する必要などないのだ。

「……私が」

 しばらく沈黙していた藍が、ポツリと、掠れた声を上げた。

「うん?」

 覗きこんだ拓郎の視線の先で、藍の表情が微かに動いた。色素の薄い茶色の瞳に、悲しみの余波が顔を覗かせる。

「私が、この子を飼いたいって言わなければ……」

「うん」

 声を詰まらせる藍に、拓郎は静かに相づちを打つ。

「最後まで、お母さんや兄弟だちと一緒に居られたのに――」

「……うん」

 拓郎は、藍の言葉を否定しない。

 否定しても、藍がそう思っている以上、あまり意味がないと知っているから。


「ごめ……んね」

 そう言って藍は、もう二度と動くことのない、膝の上の白い子猫の頭をそっと撫でる。

 撫でる手の甲に、ぽたりぽたりと涙の滴がしたたり落ちていく。

 声を上げることもなく、激することもなく、子猫の頭を撫でながら静かに涙を流す藍の姿を見て、拓郎は胸を突かれた。

 ――なんて泣き方をするんだ。

 声を上げればいい。

 泣きわめいたって構わない。

 でも、こんな風に泣かれると、どうして良いのか分からなかった。

『君のせいじゃない』

『しらたまは、きっと幸せだったよ』

 言ってやりたい事はいくらでも浮かぶが、どれも藍の慰めにもならない気がして、喉の奥で引っかかった言葉は出てこない。

 ――不甲斐ない。

 十も年上だと言うのに、好きな女の子が悲しんでいるこんな時、気の利いた言葉の一つも言ってやれない自分が拓郎は不甲斐なかった。

 そして、結局。

 拓郎はそのまま、静かに涙を流す藍の隣で、ただ黙って一緒に座って居ることしか出来なかったのだ。



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