淡雪 2
――どうして、悪い予感ほどよく当たるのか。
夕闇に包まれる町並みを縫って、アパートへと車を走らせながら、拓郎は小さなため息をついた。
佐藤家から子猫を貰い受けて一週間ほど経ったこの日の夕方、拓郎は仕事先で始めて、藍からの電話を受けた。
仕事と言っても相手が居るわけではなく、 アルバイトをしている雑誌社のスナップ写真を撮り歩いていただけなので、電話があったこと自体は別になんの問題もない。
問題は、電話の内容だ。
携帯の着信番号を見たとき、何処の電話番号か分からずに躊躇したが、すぐに自分のアパートの固定電話だと気付き、ドキリとした。
藍からの始めてのコールが嬉しくてドキリとしたのなら目出度いが、今朝出掛けに藍が『子猫が元気がない』と心配そうにしていたのを思い出して、『もしや』と悪い予感が胸を過ぎったのだ。
「もしもし、藍ちゃん?」
「……はい。あの、お仕事中にすみません」
案の定。
藍の声音は、電話越しなのを割り引いても、妙に低く覇気が無い。
悪い予感が現実味を帯びていく。
「仕事はもう終わったから大丈夫だよ。それよりも、どうかした? 何かあった?」
返事をしたきり電話の向こうで黙り込んでしまった藍に、拓郎は、なるべく穏やかに問いかけた。
「しらたまが、ぐったりしたまま起きないんです……」
後半は、掠れて涙声になっている。
『しらたま』とは、子猫の名前だ。
「起きないって、眠っているんじゃなくて?」
――ぐったりしている?
「朝、少しミルクを舐めただけで、後はぜんぜん何も口にしないで眠ってしまって、ずっと気になって見ていたんですけど、一時間くらい前から呼んでも反応しなくなって、息も苦しそうで……」
すすり上げるような音が言葉尻に重なる。
一時間。
恐らく、拓郎に電話するかどうか藍が迷っていた時間なのだろう。
時の流れと共にゆっくり近付いて来てはいても、それほどに二人の距離はまだ遠い――。
遠慮なんかしないで、すぐに電話してくればいいのに。
拓郎はそう思ったが、口には出さず『45分くらいで帰れるから、出掛ける用意をして置いて、動物病院へ連れて行こう』
そう言って、電話を切った。
子猫の『しらたま』という名前は、二人で案を出し合って最終的には藍が決めたものだ。
『猫の名前って普通、どんな感じの名前を付けるんですか?』と藍が言うので、タマとかミーとかトラとか候補を出していたら、何となく『しらたま』という名前に落ち着いたのだった。
由来は、『白いタマ』を縮めて、ついでに可愛らしく平仮名にしてたみたのだそうだ。
可愛いかどうかはさておき、あまり聞いたことがないユニークな名前には違いない。
子供の頃からずっと憧れていたと言う『ペット』への藍の傾倒ぶりは、傍目で見ていても拓郎が少し妬けるほどだった。
でもやはり、いつも側に生き物の気配が有るというのは、精神衛生的にも良いのだろう。
もともと暗い性格の娘ではないが、子猫の『しらたま』が来てからのここ一週間は、目に見えてその表情が明るくなっていた。
拓郎も捨て猫を拾って来てしまう位には動物好きなので、小さな子猫が部屋の中を走り回ったり、カーテンをよじ登ったり、膝の上でゴロゴロ喉を鳴らして眠ってみたりするのを、楽しんでいたのだ。
それにしても、危惧していたこととはいえ、まだ一週間。
「……いくら何でも、早すぎるだろう」
人間でも、動物でも、もって生まれた『寿命』がある。
この世に生まれ出でた瞬間から始まる、だれもが逃れ得ない死へのカウントダウン。
それを運命と呼ぶのか、宿命と呼ぶのかは分からないが、変えようのない事だと拓郎は思っている。
叶うなら『天寿を全うして老衰で』と行きたい所だが、大抵の生き物はその恩恵に与ることは少ないし、自分も例外ではない。
拓郎の両親も然り――。
自分自身も病気か事故か、いずれにしても、ある日突然生を終えるのだろう。
だが、物理的努力で命を長らえる事が出来るのなら、それもまた、もって生まれた寿命。
小さな子猫の命を繋ぐ術があるなら、そのために金銭や労力を惜しむような感性は、拓郎になない。
何よりも、藍の悲しむ顔を見たくはなかった。