恋人未満 2
どうにかコーヒー逆流の余波が過ぎ去った後、拓郎は涙目で藍の顔を見詰めた。
「あの……大丈夫ですか、芝崎さん?」
心配そうに気遣ってくれる藍の表情に、一瞬拓郎は自分の耳が故障したんじゃないかと本気で疑う。
「今、なんて?」
言ったのでしょうか?
「え……? ああ、芝崎さんは、セッ」
「分かった! よーく分かった……」
思わず、藍の言葉を遮るようにそう言った後、拓郎はひとつ大きな溜息をついた。
やっぱり、聞き間違いじゃない。
それに、冗談で言っている訳でもないらしい。
その瞳は、真剣そのものだ。
それにしても、聞き方がストレート過ぎやしませんか、お嬢さん。
もうちょっと、オブラートに包むとか。
いや、そもそも、女の子がそんな事聞いたら、いけません。
ごほん。
拓郎は、内心の動揺を振り払うように、一つ咳払いをしてからゆっくりと口を開いた。
「ええ、と。それは、藍ちゃんと、と言う意味……なのかな?」
「はい」
藍はコクンと頷く。
動揺しまくる拓郎とは対照的に、答える藍の瞳には、羞恥心やてらいといった感情は見られない。
拓郎は、目の前にいる爆弾発言娘をまじまじと見詰め、九割方フリーズしている脳細胞を総動員して、何とか言葉を引き出しにかかった。
「で――、藍ちゃんはどうなの? 俺と、その……、したいと思うの?」
さすがに羞恥心が邪魔をして、藍のように面と向かって『セックスしたいのか』とは聞けない。
なんだこの変な日本語は!
と、思わず自分にツッコミを入れたい衝動に駆られながら、恟恟と藍の答えを待つ。
少し考えを巡らせるように沈黙した後、「よく分かりません」と藍が首を傾げるのを見て、拓郎は軽い目眩に襲われた。
――俺の方が分からないよ。
どうしてこういう会話に発展しているのか、全く理解できない。
前々からユニークな事を言う娘だとは思っていたが、これはまた特別にぶっ飛んでいるじゃないか。
普通は、この手の事は、頭で考えても言葉にはしない。
特に、若い女の子なら、恥じらって然るべき話題の筈だ。
なのに、それを照れもしないで平然と質問してくる。
いったいどういう環境で育ったら、こういう思考回路の持ち主になるのだろう?
謎だ。
出来れば、ここから逃げ出したい心境だが、真面目に質問されている以上、真面目に答えるのが大人の勤めってものだろうと、拓郎は何とか自分に言い聞かせる。
「ええと……」
YESと答えたら、藍はどんな反応をするのだろうか?
一瞬よからぬ方へ考えが行きかけたが、果てしなく深い墓穴を掘りそうな予感がして、当たり障り無く答えをはぐらかす事に決めた。
「だったら、すぐに答えを出そうと焦ることないんじゃない? ほら、時間制限があるわけじゃないんだから、こういう事はゆっくりと……ね?」
と、全く質問の答えになっていない言葉を、内心はともかく、表面的には努めて穏やかに言ってみる。
「そうですか?」
「……そう、思うけど?」
「そうですね」
それで、質問の答えは? と突っ込まれたら何と答えようとビクビクしていた拓郎は、ニッコリ笑みを浮かべた藍に引きつった笑顔もどきを向けた。
自分の言葉が嘘だ――と、拓郎は分かっていた。
藍の仕草や言動に、こんなにも動揺している自分がいる。
焦っているのは、自分の気持ちに気付いてしまった拓郎の方なのだ。
正直な気持ちを言えば、拓郎は藍に対して、最初の『保護者的な気持ち』とは違う感情を抱いていた。
それは間違いなく、男としての拓郎が女としての藍に対する愛情だ。
クリスマスの夜の一件も、酒の力が大分入ってはいたが、根本はその気持ちの発露だったのだ。
でも、相手は十も年下の十七才の女の子。
そう、女じゃない、まだ少女だ。
拓郎が今まで付き合ってきたような、大人の女ではないのだ。
それは、拓郎が自分の気持ちにブレーキを掛けるだけの、大きな壁になっていた。
憎からず思いを抱いている健康な若い男女が、同じ屋根の下に住んでいて性的関係を持たないのは、普通ならあり得ない状況なのかもしれない。
拓郎だって、他人のそんな話を聞いても、信じないだろう。
それでもやはり。
その壁を簡単に飛び越える事は、拓郎には出来そうもなかった。