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   聖なる夜に 6


 分からない。

 こんな気持ち、私は知らない。

「う……ん」

「!?」

 藍の気配を感じたのか。熟睡していると思っていた拓郎が身じろぎをして、藍は飛び上がりそうになってしまった。

 「あ、芝崎さん、着替えて寝ないと、スーツがしわになっちゃいますよ。それにちゃんとお布団に入って寝ないと風邪を引きます!」

「ん……」

 思わずまくし立ててしまった藍の言葉に、拓郎が微かに返事らしき声を漏らした。

「芝崎さん、着替えましょ?」

「う……ん、藍……ちゃん?」

「はい。ネクタイ、外しますよ?」

 とにかくネクタイを外そう。

 上着はともかくネクタイだ。

 何故そんなにネクタイに固執するのか、藍自身も分からなくなっていたが、とにかくそうしないといけないような使命感に燃えていた。

 だが薄暗い中、手探りな事もあってなかなか上手く行かない。焦って外そうとするが、余計にこんがらかってしまう。

「藍……」

 何だかもの凄く悲しい気持ちになってきた時、拓郎に名を呼ばれた気がした。

「え?」と思った次の瞬間、ネクタイを持つ手首を掴まれ、強い力でグイっと引かれた。

 グラリと、世界が傾く。

 重力の洗礼を受けた藍は為す術もなくそのままベットの上に、正しくは拓郎の身体の上に、ドッサリと倒れ込んだ。

 拓郎の胸に顔を伏せて途方に暮れていると、背中に回っていた手がすっと肩の方に動いて、頭上から「ただいま」という呟きが聞こえてきた。

『ああ、良かった。起きてくれたんだ』とほっとして、藍は顔を上げた。

 微かに開いた拓郎の黒い瞳と、視線が合う――。

「お帰りなさい。服を着替えてちゃんとお布団に休みましょう? 風邪引きますよ?」

 幾分引きつり気味の笑顔で話しかけると、拓郎は「うん、ただいま」と確かに笑顔で答えた。

 でも。すぐにまた目を閉じてしまい、一向に藍を解放してくれる気配がない。

 ……。

「し、芝崎さん?」

「うん……」

「起きてますか?」

「うん……」

「寝てますか?」

「うん……」

 何を聞いても、同じ間合いで同じトーンの答えが返って来る。

 藍は悟った。

 拓郎は完璧に寝ぼけている。

 こうなれば、耳元で大きな声を出して起こすしかない。

 藍は、身体を何とかずり上げようと手足をばたつかせた。

 すると今度は、その動きに呼応するように肩に回っていた拓郎の手が、すっと離れた。

 ああ、今度こそ起きてくれた――。

 と、安堵したのも束の間。

 離れた筈の手にスッと首筋を撫で上げられ、背筋にくすぐったい感覚が走り、藍はビクリと固まった。

 腰を抱く腕と首筋に触れる手に、ぐっと力が込められ、引き寄せられる。

 え?

「芝……」

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 分かるのは、唇に伝う、熱い感触。

「んっ!?」

 唇から唇に伝わる柔らかくて熱い感触が、煩いほどに暴れ出した鼓動と共に、痛みに似た甘い感覚を全身に伝える。

 し、し、芝崎さん!?

「ん……!」

 アルコールの匂いと、バラの残り香、そして熱い唇の感触。

 くらくらと、世界が回る。

 苦しい。

 ままならない呼吸と、そして。

 何故か、胸の奥が、苦しかった――。

 ……ああ、これじゃ。

 助けに行って二重遭難しているようなものじゃない。

 明日の朝には、二人仲良く風邪を引いているにきまっている。

 やっと唇は解放されたものの、身体はがっちり抱きしめられたまま身動きの出来ない藍は、突然の出来事に顔を赤らめながらも、少しばかりピントのずれた心配をしていた。


 何だろう、この香り。

 香水みたいに強い匂いじゃない。

 微かな、ほんのりと甘くて優しい香り。

 どこかで、嗅いだような気がする……。

「くしゅんっ」

 すぐ耳元で上がった可愛らしいくしゃみの音に、拓郎は珍しく寝ぼけもせずにパチリと目を開けた。

 目の前には、柔らかそうな色素の薄い栗色の髪が、カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされて、金色に縁取られているのが見えた。

 ああ、この甘い香りは、シャンプーか……。

 ……シャンプー?

 って、誰の?

 拓郎は、まるでゼンマイ仕掛けのロボットのように、自分がしっかり抱え込んでいるものに、ゆっくりと視線を這わせた。

 動きがぎこちない一番の原因は、昨夜深酒しすぎたからでも、何年ぶりかで偶然再会した年上の元恋人に『女心の何たるか』を、延々とレクチャーされたからでもない。

 ―――冗談だろ?

 拓郎は、君恵の家に『お泊まり』している筈の藍がパジャマ姿で、それも自分の腕枕でスヤスヤと眠っているのを見て、見事に固まった。

 ――なんだ、これは?

 なんで、こんな事になっているんだ!?

 たらりたらりと、変な汗がにじみ出す。

「う……」

 襲ってくる頭痛と寒気に、藍を抱えたまま思わず呻き声を上げる。

 完璧に二日酔い状態の脳細胞をフル回転させて、拓郎は必死に昨夜の出来事を順に辿った。

 黒谷邸のクリスマス会場で、しこたま麗香に飲まされて、『今後の為にお姉さんが、女心の何たるかを一から教えてあげる!』と延々とレクチャーされ、それからタクシーで彼女をマンションまで送って、その足でアパートに戻ってきたのが、多分3時か4時ごろ。

 どうせ藍は『お泊まり』に行っているから、『いいや、ベットで寝ちまおう』と思った……んだよな、確か。

 記憶は、そこで途切れている。

 記憶は途切れているが、微かに覚えているものがある。

 柔らかい、唇の感触。

 あれは、夢か、それとも――?

「くしゅんっ!」

 再び上がったくしゃみの音に、ギクリと思考も止まる。

 恐る恐る藍の顔を覗き込むと、きょとんと自分を見ている藍の茶色の瞳とバッチリ視線がかち合った。

「あ、おはようございます」

「……おはよう」

 ニッコリと朝の挨拶をしてくる藍に、拓郎はぎこちない笑顔を返す。

 自分の行動に自信が無い。

 全くない。

 救いは、『起きたら一糸まとわぬあられもない姿』、という状態じゃ無かったことだが、だからと言って安心は出来ない。

 拓郎には、何かをした微かな記憶があるのだ。

 顔も引きつろうと言う物だ。

「寒いですね。すぐに部屋を暖めますね」と、ベットを降りてLDKの方へ歩いて行く藍の後ろ姿を拓郎は呆然と見送った。

 藍は、まるでいつもと変わらない。

 これは、どう判断したら良いのだろうか?

 あれは、夢だったのか?

 誰か、夢だったと言ってくれ。


 聖なる夜の翌朝。

 真実を藍に問いただす勇気も持てず、悶々と二日酔いで痛む頭を抱えながら、もう二度と深酒はすまいと、固く心に誓う拓郎の姿があった。




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