聖なる夜に 5
ちゃーの出産は、実に4時間に及び、結局6匹の子猫が生まれた。
さすがに恵は途中で眠くなり、君恵と共に寝室へ戻ったが、藍は美奈と二人で最後まで見届けた。
猫にしては大きいちゃーでも、人間からすれば小さな身体。その小さな身体で苦しみながら、それでも、全身全霊をかけて新しい命を生み出すその姿は、力強く、そしてとても美しかった。
まだ目も開かない生まれたばかりの小さな命は、もう既に母親の乳を懸命に吸っている。
これが、命。
命が生まれるということ――。
小さな小さな可愛らしい手で、懸命に母猫の乳房を押し出し一心不乱に乳を吸う子猫の姿を見ていたら、藍は何だか胸がいっぱいになってしまった。溢れる想いが、涙の滴となって白い頬を伝い落ちる。
「藍ちゃん?」
藍の涙を見て、美奈が驚いたように目を見張った。
「あ、ごめんなさい。何だか涙が止まらなくて……命って、凄いですね」
「ああ、もう、あなたって娘は」
「み、美奈さん!?」
涙を浮かべながら、こぼれるような笑みを浮かべる藍を、美奈は両手で『ムギュッ!』と抱きしめた。そのまま、恵にするようにスリスリと頬ずりをする。
「なんて良い娘なの。私が惚れそうだわぁ!」
柔らかくて温かい少し乱暴な美奈のスキンシップは、藍に、知らないはずの母の温もりを感じさせた。
「こんばんは。何だか楽しそうだね」
背後から飛んできた聞き覚えがある声のおかげで、藍はやっと美奈の頬ずり攻撃から解放された。佐藤家の婿養子で美奈の夫の貴之が、接待クリスマス・パーティとやらから帰って来たのだ。
「あら、あなた。お早いお帰りで」
言葉とは裏腹に、美奈は荷物を受け取ると、夫に優しい笑みを向ける。
少し気の強い美奈と、優しげな文学青年と言った風貌の貴之。良い夫婦だなと、藍は、素直にそう思った。
「あ、こんばんは。お邪魔しています」
「藍ちゃん、こんばんは。ああ、ちゃーの子猫が生まれたんだね」
藍がペコリと頭を下げると、貴之は段ボールの中を覗き込んでニコニコと笑顔を浮かべた。
「何か食べるもの作ろうか? どうせ飲まされ役で、ろくに食べてないんでしょう?」
「そうだな。お茶漬けでも貰おうかな――。ああ、そう言えば、拓郎君も今帰ったみたいだよ」
貴之の言葉に、藍の鼓動がドキンと跳ねる。
「あら、先生の所に泊めて貰うって言ってたのに、帰ってきたのね。って、まさか飲酒運転じゃないでしょうね」
「いや、タクシーだったよ」
「へえ、あの締まり屋が、タクシーで帰って来たんだ。誰かさんの顔が早く見たくなって、タクシーで帰って来たのかもね、藍ちゃん」
どうしてだろう?
佐藤家でのお泊まりは、とっても楽しいのに。明日になれば帰れるのに。
どうして今すぐ、あの部屋に帰りたいと思うのか。
「あの……」
おずおずと口を開いた藍の心の中を見透かしたように、美奈は、「今からアパートに帰る?」と、優しい笑み浮かべた。
無性に会いたかった。
あの笑顔を見て、ちゃーの赤ちゃんの事を話したかった。
新しい命が生み出される瞬間のあの感動を、聞いて欲しかった。
それに、拓郎もお腹を空かせて帰って来たのかもしれないから、何か作ってもあげたい――。
「アパートに戻る?」
美奈の言葉に、藍はコクンと頷いた。
「夜中にすみません」
「良いのよ。分かったわ。母さんには私から言っておくから、早く行ってあげなさい」
「はい!」
ドキドキと高鳴る鼓動を抱きしめながら、藍は貴之のエスコートで拓郎の待つアパートの部屋へと向かった。
どうせ隣の敷地なので、パジャマの上に美奈に貸して貰ったジャンパーを羽織った姿でアパートに戻った藍は、送ってくれた貴之に礼を言い、はやる思いを胸に、明かりの漏れる玄関のドアを開けた。
玄関には今朝拓郎が履いていった革靴が歩いた形のまま脱いであって、思わずクスリと笑ってしまう。
LDKの電気は付いているが、拓郎の姿は見えない。
出掛けに『毎年、酔い潰されるんだ』とぼやいていたから、帰ってすぐに眠ってしまったのかもしれない。
小声で「ただいま」を言って、拓郎の革靴と自分のスニーカーを揃えて並べ、藍は奥の寝室へ足を向けた。
「芝崎さん?」
声を掛けて半開きの寝室の襖から中を覗くと、明かりの消えた部屋の中、『ベットの上に』と言うよりは、『ベットの淵に引っかかって』と言った方が良い体勢で、仰向けに倒れ込んでいる拓郎の姿が目に入った。
やっぱり、眠っている。
起こさないようにと、ソロリソロリとベットに歩み寄った藍は、まるで少年のような無邪気な拓郎の寝顔を見て、思わずクスクスと笑い声が漏れてしまい、慌てて両手で口を押さえた。
恐らく、ベットまで歩いていってそのまま、ばったんキューと眠りこけてしまったのだろう。
その証拠に、スーツも着たままだし、ご丁寧にネクタイまで締めている。
もちろん、布団など掛けているはずはない。
これでは、絶対、風邪を引いてしまう。
どうしよう?
疲れているはずの拓郎を起こさないで、なおかつ風邪を引かせないようにする方法は何かないものか? と、藍は考えを巡らせた。
その1。
このまま布団を掛けて、朝までそっそしておく。
その2。
服を着替えさせてから、布団を掛ける。
その1は、さすがにネクタイをしたままでは、見ている藍の方が苦しい気がするので、却下。
その2は、眠っている人を起こさないで、着ている服を全部着替えさせるのは無理な気がしたので、これも却下。
なので、中間を取って、ネクタイを外して出来れば上着を脱がせてから布団を掛けることに決めた。
「えっと、まずはネクタイ……よね?」
呟くと藍は早速ネクタイのを外すべく、ベットサイドまで近づいて腰を屈めた。
瞬間。
フワリ――。
アルコールの匂いと、それよりも濃厚な甘い花の香りが鼻腔をくすぐり、藍は思わず動きを止めた。
甘い――、おそらくはバラの花の匂い。
香水だろうか?
それは藍に、大人の女性を連想させた。
ドキン、と大きな音を立てて鼓動が跳ねる。
『どうせ、綺麗なお姉ちゃんにお酌をされて、鼻の下を伸ばしているに決まっているんだから』
クリスマス・パーティの時に言ってた美奈のセリフが、藍の脳内を駆けめぐる。
とても強い香水を付けている女性が隣に座ったのかもしれない。
でも、それだけで、こんなに香りが移るものだろうか?
相反する思いが交錯し、ドキドキと鼓動が早まっていく。
胸の奥に生まれた、モヤモヤとした感情。
これは、いったい何?