聖なる夜に 4
拓郎が、半強制的に昔の恋人との親交を深めている頃、藍は佐藤家の客間に居た。
入浴後。しばらくは、君恵と美奈と三人でテレビを見ながら楽しくおしゃべりをして過ごしたが、さすがに11時を回った頃には疲れが出てきてお開きになり、皆、床についたのだ。
昔はともかく、拓郎のアパートのあまり広いとは言えない居住空間に慣れてしまった今の藍には、12畳の和室に引かれた布団に一人、ポツンと横になっているこの状況は、とても寂しく感じられる。
疲れてはいるはずなのに、目を瞑ってみてもなかなか眠気が襲ってこない。
始めての『お泊まり』で興奮気味ななこともある。でも、寝付かれない一番の原因は分かっていた。
入浴の時に美奈から聞かされた『拓郎の過去』。
自分が考えていたものよりも過酷なその事実は、藍の知っている拓郎の人となりからは想像がつかない。
「同情して欲しくて、話すんじゃないのよ。ただ、私は藍ちゃんが好きだから、上辺だけじゃなく、拓郎という人間のことを良く知って貰いたいの」
美奈は、最後にそう言った。
口調は普段と同じだったが、美奈の目は真っ直ぐ真剣なものだった。
『両親の事故死』『保険目当ての親戚』『たらい回し』
色々な言葉が浮かんでは消えて、幼い少年が辿ってきた道程を思うと、胸の奥が痛んだ。
出会ったときから笑顔で。
少し強引で。でも一生懸命で。
十も年上だと言うのに、まるで少年のように屈託が無くて、心の中にスルリと入ってきた人。
――胸の奥がこんなに痛いのは、どうして?
同情、なのかな?
『男として好きかってこと』
美奈の言葉と拓郎の笑顔が、頭の中をぐるぐると回る。
「……お水でも、貰ってこよう」
心の中で渦を巻くモヤモヤとした感情を吐き出すように、小さくため息をつくと、藍はカーディガンを羽織ってキッチンへと足を向けた。
もう深夜。灯りの落とされた広い廊下を包む冴えた冷気に身を震わせながら、皆を起こさないようにと足音を忍ばせ、薄闇を縫ってキッチンに向かう。その途中、居間の襖の隙間から灯りが漏れていることに気付いて、藍は足を止めた。
――あれ? 誰か起きているのかな?
部屋の中には複数の人の気配がある。何やら楽しげな話し声も聞こえて来た。
大人のお付き合いのクリスマスパーティに出席していた、美奈の夫の『貴之さん』でも、帰って来たのだろうか。藍は、『お水を頂きます』と声を掛けようと、襖を開けて顔を覗かせた。
部屋の中には、美奈と君恵。それに眠っていたはずの恵も起きていて、コタツを囲んでいる。
「あ、藍ちゃんだぁっ!」
恵が、熊さん模様のピンクのパジャマ姿でとてとてと嬉しそうに駆け寄り、藍の左手に小さな両の手を絡ませた。プニプニとした柔らかい感触と幼児特有の高い体温が、冷え切った藍の手に心地よい温もりを伝える。
「あら、藍ちゃん。起こしちゃった? ゴメンね夜中に騒がしくして」
「あ、いいえ。喉が渇いたので、お水を頂こうかなと思って来たんですけど……」
申し訳なさそうに言う君恵に、藍はぶんぶんと手を振ってから首を傾げた。
「あの、何かあったんですか?」
部屋の中には、妙な活気が溢れているが、クリスマスパーティの続きでもなさそうだ。
「あのね、ちゃーちゃんが、赤ちゃん生むの! こっち、こっち」
「え?」
喜色満面を絵描いたような表情の恵にグイグイと右手を引かれ、藍は、皆の居るコタツの方へと足を向けた。
近づくと、いつも猫たちが寝ている場所にミカン箱大の段ボール箱が置かれていて、その中に佐藤家の飼い猫の二匹のうちの茶トラの雌、『ちゃー』が入っているのが見えた。
妊娠中のちゃーは、今にもはち切れそうなお腹をしていて、今日もパーティの最中はずっと丸くなって眠っていた。でも、箱の中のちゃーは、様子が変だった。
『グゥニャン! ニチャウー!』と、苦しそうな鳴き声を上げて、立ち上がってはグルグルその場を回り、また横になってしまう。その繰り返しをしている。尋常な動きじゃないのが藍にも分かった。
「ちゃーちゃん、どうしたんですか!?」
こんな苦しそうな猫の鳴き声を初めて聞いた藍は、驚いてしまった。
「大丈夫よ。陣痛が始まっただけだから、心配いらないわ」
答える美奈の方は慣れているのか、その言葉通りに悠然としている。
「ジンツウ……?」
ジンツウ――って、陣痛のこと?
赤ちゃんが生まれるときに母親が感じる痛みの事だと、言葉と知識が藍の脳内でリンクした。
「じゃあ、今から、赤ちゃんが……」
「そう、生まれるわよ」
命が生まれる。
新しい命が、生み出される。
ニッコリと浮かんだ美奈の笑顔を、藍は驚きの眼差しで見詰めた。