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   聖なる夜に 3

 他愛無い世間話に花を咲かせた後、「外の空気に当たりたい」という麗香に誘われて、拓郎は黒谷邸のリビングからテラスに場所を移した。室内と同じ艶やかな白い大理石貼りの床に生える、ギリシャ神話に出てくる神殿のような飾り柱の向こう側。高台に建つ屋敷の二階のテラスから望む街の灯りは、クリスマスなこともあり、いつもよりも五割り増しほど華やかだ。

 漏れてくる部屋の灯りと夜の闇とが作り出す、何処か現実離れした淡い闇の中。二人は言葉もなく、その風景にぼんやりと視線を巡らせた。

 夜を渡る十二月の外気は、肌に刺さるように冷たいはずだが、アルコールで火照った身体には心地よく感じる。だが、さすがに麗香のチャイナドレス姿では、見ている拓郎の方が寒くなってしまう。

「寒くないですか?」

「平気よ――、と若いフリしてみたい所だけど、やっぱりちょっと寒いかな」

 肩をすくめて舌をぺろりと出してみせる麗香の少女めいた仕草に苦笑しつつ、拓郎は「はい、どうぞ」と自分のスーツの上着を脱いでその肩に掛けてやる。

「ありがとう。それにしても……」

「はい?」

「あなたのスーツ姿って、初めて見たわね」

 麗香は微かに口元を綻ばせて、昔を懐かしむような眼差しを向けた。

「そう……でしたか?」

「ええ、初めてよ」

 拓郎は滅多に着ない一張羅のダークグレーのスーツに視線を這わせて、記憶の糸を辿った。

 そうかもしれない。

 付き合っていたころ、会うのは決まって互いの仕事帰りで、大手出版社に勤める麗香はスーツ姿。拓郎はアルバイト帰りの普段着で、主にジーンズ姿だった。実際は三歳の年齢差しかないが、拓郎が童顔な事もあって、傍目には『やり手キャリアウーマンと若いツバメ』に見えたかもしれない。

「似合ってるわよ。思わず、惚れ直しそうなくらいにね」

「それは、光栄ですけど……」

「けど? 」

「彼氏に怒られそうで、怖いですね」

 このセリフは、『これだけの美人を周りの男どもが放って置くはずはない』という推測と、何となく離れてしまった過去の恋人への贖罪の気持ちが言わせたものだ。拓郎が殊更、二人の関係の自然消滅を狙った訳ではないのだが、事実のみを客観的に見ればそう言われても仕方が無いのだ。

「……たぶん、教えても怒らないと思うわ」

 麗香の声がワントーン落ちたことに気付いて、拓郎はギクリと固まった。

 恐る恐る麗香の顔を覗き込むと、目が据わっている。拓郎も大分飲んでいるが、麗香も既に大分飲んでいたようだ。

 この女性は酒にはめっぽう強いが、ある一線を越えると人格が変わる。それも、見た目は酔っぱらっているように見えないので始末に負えない。

「だって、いつもデートに誘うのが自分ばかりじゃ面白くないからって、向こうから誘ってくれるまで会わないでいたら、そのまま何年も音信不通になっちゃうような、薄情な彼氏だから」

 一気にそれだけのことを言うと「ねぇ、そう思うでしょ?」と麗香はおもむろに、拓郎のネクタイを『むんず』と掴んだ。そのままグイっとネクタイを引かれて、拓郎は思わず「うわっ」と情けない悲鳴を上げてしまう。

 フワリと甘い花の香りを身に纏い、拓郎の鼻先で微笑む麗香の瞳は、まるで良からぬ事を企む小悪魔のような怪しい光を宿していた。

 間違いない。

 これは、完璧に酒量のボーダーラインを超えている。

「よ、酔っぱらってますね、 麗香さん?」

 恐らく、黒谷邸に来たときには、既にアルコールが入っていたのだろう。大手出版社の編集なんぞしていれば、さぞかしパーティの誘いも多いはずだ。

「酔っぱらってないわ」

 愚問だった。酔っぱらいは、酔っぱらっているとは認めないものだ。

「さ、寒いから、部屋に戻りましょう。風邪引きますよ」

 わざわざ、虎の尾を踏みつけるような真似はしたくない。こういうときは、逃げるに限る。

 慌てて身を引こうとした拓郎は、ニコニコと小悪魔の笑みを貼り付けたままの麗香に、更に強い力でネクタイを引っぱられ『うげっ』っと仰け反った。まるで、横暴な飼い主に無理やり散歩に連れ出される哀れな飼い犬のごとく、強引に麗香の鼻先に引き寄せられる。

「この、薄情者!」

 眼前の小悪魔の笑みは魔女の妖艶なものに変わり、拓郎は『これはヤバイ!』とばかりに更に身を引こうとした。が――。

「麗っ……」

 次の瞬間、拓郎の言葉は麗香の唇で塞がれてしまった。

 むせ返るような花の香りと、柔らかい唇の感触が拓郎を包み込む。

 アルコールと花の香りと熱い唇。

 頭が、くらくらする。

 この香水。

 確か『T・ローズ』と言ったか。

『Tは、temptationの略で「誘惑」の意味があるのよ』と、昔、麗香本人から教えられた記憶がある。

 甘い陶酔の中、何故か、藍の屈託のない笑顔が脳裏に浮かんだ。

 藍なら、どんな香りが合うのだろうか――。

 いや、香水は似合わないな、きっと。

 心の奥深い所に走る微かな痛みを感じながら、拓郎はぼんやりとそんな事を考えていた。



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