06 聖なる夜に 1
12月24日の夜。
世間はクリスマスムード一色で、どこもかしこも浮き足立っている。
藍もご多分に漏れず、そのクリスマスムードのまっただ中に居た。君恵の家のクリスマス・パーティに招かれて、朝から飾り付けや料理の仕込みなどの手伝いをしていたのだ。
「それにしても、藍ちゃんの料理の腕前には驚かされるわね」
君恵の一人娘で、婿を取って家の後を継いでいる美奈が、コタツの上に並んだ料理を眺めながら、しみじみと感心した様子で呟いた。
美奈は、ショートボブの似合う快活な姉御肌の女性で、藍が美奈に初め会ったときの第一声が「へぇ〜。あなたが、拓郎の彼女なんだ」で、頭の天辺からつま先までしげしげと観察された藍は、正直『苦手な女の人だ』と感じた。
でも、一旦打ち解けてしまうと、実に面倒見が良い優しい女性だと言うことが分かった。今では、温かい『お母さん』と言った君恵とは又違う意味で、藍の良き相談相手になっていた。
「本当に、今度ケーキの作り方教えて貰おうかしらね」
甘党で、ケーキには目がない君恵が、ほくほく笑顔で相づちを打つ。孫娘の恵は、「ケーキ、ケーキ♪」とはしゃいでいた。
テーブルの上には、手作りのデコレーションケーキを始め、チキンの照り焼きからデザートまで、本格的なクリスマス料理が所狭しと並んでいる。勿論、美奈も君恵も、そして五歳の恵も手伝いはしたが、その殆どは『日頃のお礼に』と、藍が作った物だった。
飾り付けも万端。料理も完成。あとは、美味しく頂くだけだ。
「お口に合うといいんですけど」
「合う合う、絶対美味しいって。それにしても……」
乾杯のシャンペンをグビリと一気に飲み干し、腕組みをしながら『う〜む』と厳めしい表情で考え込む美奈のセリフに、藍は小首を傾げた。
「家の男どもと来たら、日頃の行いが悪いから、せっかくのご馳走を食いっぱぐれるのよね」
美奈の夫の貴之も拓郎も今夜は『大人のお付き合い』とやらで、このクリスマス・パーティには欠席なのだ。ちなみに、君恵の夫は五年ほど前に他界しているので、佐藤家の男手は婿養子の貴之だけである。
「これ、美奈。家族の為に、クリスマスの夜も接待をしている人を捕まえて何ですか」
君恵がたしなめるが、美奈は何処吹く風で、「どうせ、綺麗なお姉ちゃんにお酌されて鼻の下を伸ばしているに決まっているんだから。ね、藍ちゃん」と、藍に話を振る。
「えっ……あ、はい」
何と言って良いか分からない藍は、返答に困ってしまった。
拓郎は、写真家の師匠でもある黒谷隆星邸での毎年恒例のクリスマス・パーティに呼ばれていて、今日は帰らないと言っていた。だから、藍も今夜は君恵の家に『お泊まり』することになっている。
『毎年、酔い潰されるんだ』と、ため息を付きつつ出掛けて行った拓郎も、美奈の言うように『綺麗なお姉ちゃんにお酌をされて、鼻の下を伸ばしたりしている』のだろうか?
その絵面を想像していたら、なんだか胸の中がモヤモっとしてくる。
心の片隅に生まれた、言葉にしがたい初めてとも言えるその感情を、藍は持て余していた。
その頃。
黒谷邸のクリスマス会場にいた拓郎は、鼻の下を伸ばして……はいなかった。
「こら、呑みが足りないぞ芝崎。もっとじゃんじゃん行け!」
「ほいほい。ビールもイケイケや、芝ちゃん♪」
「シャンペンもな、拓郎」
「日本酒、熱燗が良いか? お冷やもあるぞ!」
拓郎は、決して酒に弱くはない。むしろ強い方で、普通に呑む分にはあまり酔いつぶれると言うことはない。
だが、これだけハイピッチでチャンポンをさせられると、さすがにきつい。
二十七歳という、ここに集う者の中では年齢邸的に一番若い拓郎が、飲め飲め攻撃のターゲットになるのは毎年恒例の事で、ある程度覚悟をしてきているが、さすがに早々と酔いが回って来ていた。
――やっぱり、今日は帰れそうもないな。
藍は、君恵おばさんの所に泊まることになっているから心配はない。それでも、『お帰りなさい』の言葉とあの笑顔が見られないのは、少し淋しい気がする。
――変なものだな。恋人でもなんでもないのに――。
拓郎は思わす、苦笑した。
あの日、藍をアパートに連れてきてから一ヶ月余りが経つ。だが、相も変わらず、二人は『部屋主と居候』の関係だった。
確かに、拓郎には藍に惹かれている自覚はあるが、一番のネックは藍の年齢だった。
藍はまだ、未成年だ。そして二十七歳と十七歳という年齢差。これだけ年が離れてしまうと、妙にその年齢差が気になるのだ。
それに、十七歳といっても、藍は普通の十七歳とは大分違っていた。
まるで、幼い少女のまま培養されたような、純粋さを持っている。ああも無邪気に100%信頼全開モードでいられると、これは絶対手を出しちゃいかん、と言う気になってくるのだ。
さすがに一緒のベッドで眠ったのは最初の一日だけで、『こりゃヤバイ』と思った拓郎が、すぐに布団を購入して自分は居間の方に寝るようになったのもある。
それにしても。説得して親元に帰すでもなく、追い出すでもなく、ただ現状に留まっている。どのみち、いつまでもこんな不自然な生活が続くはずはないのに。
俺は、いったいどうしたいんだ?
ふう――。
「何? ため息なんかついて。らしくないじゃない、拓郎」
我知らず盛大なため息を漏らした時、背後からかけられた聞き覚えのある涼やかな女性の声にギョっとして、拓郎は慌てて振り返った。回り始めたアルコールのせいか鼻腔に届く甘い香水の匂いのせいか、クラリと目眩に似た感覚に襲われる。
そこに立っていたのは、深いスリットの入った黒いチャイナドレスを着た美しい女性。
彫りの深いシャープな顔立ちは、どこかエキゾチックでハーフのようにも見える。
理知的な印象を与える、やや広めの額。
その額に落ちかかる、緩やかなウェーブの掛かった柔らかそうな髪。
憂いのある瞳。
伏せられた長いまつげ。
やや大振りの耳には、血のように赤い小さなルビーのピアスが怪しく煌めきを放っている。
無造作に纏めた豊かな漆黒の髪が、白い肌をより際だたせていた。
「お久しぶりね、拓郎」
形の良い赤い唇が、優雅に拓郎の名前を呼ぶ。
「麗……香さん」
――佐伯麗香。
拓郎は、一時期自分の恋人であった、年上の美しい女性の名を呆然と呟いた。