部屋の灯り 3
十九年前の冬。
君恵の元に、親友の訃報が入った。
小学校から大学まで、ずっと一緒に学んだ、まるで姉妹のような存在の親友・瑠璃子。
優しい夫と可愛い一人息子に囲まれて、平凡だが幸せな生活を送っていた彼女は、ある日、不慮の事故によって、夫と自分自身の命を失った。
家族旅行の帰り、信号待ちをしていた瑠璃子たち家族の乗ったタクシーに、居眠り運転の十トントラックが、ノンブレーキで突っ込んだのだ。タクシーは、原型を留めないほど無惨に大破した。瑠璃子も、その夫も、タクシーの運転手も、一瞬にしてその命を奪われてしまった。両親がとっさに庇ったのであろうその子供――拓郎だけが重傷だったものの、奇跡的に助かったのだ。
拓郎の背中には、その時の大きな傷跡が未だに消えずに残っている。
あれは、例えようが無い悲しい不幸。
だが、さらなる不幸は一人残された幼い拓郎の身に、情け容赦なく降りかかったのだ。
『保険金目当ての親戚を、たらい回しにされる』。それが幼い少年にとってどんな生活だったかは、察して余りある。
他人である君恵には、それが分かっていながら、どうしてやることも出来なかった。
ハイエナのような親戚縁者は、拓郎に残された財産を全部引きはがすまで、彼を手放そうとはしなかったのだ。
幸せとはほど遠い生活の中。毎年自分の誕生日にプレゼントを贈ってくれる母親の親友の君恵を頼って拓郎が上京したのは、中学を卒業した年だった。
「おばさん、働いて必ずお返しします。ここに下宿させて下さい」
畳キチンと正座をして、深々と頭を下げる拓郎に君恵は言ったのだ。
「分かったわ。ここに来なさい。アパートに空いてる部屋があるから、そこを使うといいわ」と。
『返して貰うお金は多い方が嬉しいから、学費も出すわよ』と言う君恵の申し出を、拓郎は丁重に断わった。
その後自力で働きながら、定時制の高校と通信制の大学を卒業すると、好きだったカメラの道へと進んだのだ。
『強い子』だ。いや、『強くならざるをえなかった子』だ。
あの環境の中で良く、あんなにいい子に育ったものだと感心する程だった。
――大事な親友の忘れ形見。今までの苦労の分、幸せになって欲しいと心からそう思っていた。
「恵ちゃん、今度はお絵かきしようか?」
「うん、しゅるしゅるっ!」
自分が考えに沈んでいる間に、いつの間にか仲良しになったらしい孫娘と、もしかしたら息子のように思っている青年の大事な人になるかも知れない少女に、君恵は穏やかな笑みを向けた。
「そうそう。家にね、芝崎君が仕事先で拾って来た猫ちゃんが二匹いるのよ」
「猫ちゃん……ですか?」
君恵の言葉に、藍は、きょとんと目を丸くする。
「そう、雄と雌、二匹いるの。家に来たときは弱々しくて今にも死にそうだったんだけど、今じゃ大きくなって凄いジャンボ猫になっているけど。良かったら、今度見にいらっしゃいな」
「はい。ぜひ!」
「はい、じぇひっ♪」
本当に嬉しそうに『コクン』と頷く藍の仕草を、恵が真似をして『コクコクコク』と相づちを打つ。
人見知り気味の孫娘が、短時間でこんなに他人に懐くのは珍しいことだ。どこか相通ずる所があるのかもしれない。
「じゃあ、善は急げね。お昼は家で手巻き寿司パーティーでもしましょうか」
楽しそうにはしゃぎ合う娘達の様子に、思わず、君恵の顔に笑みがこぼれた。
君恵の言葉に甘えて、と言うよりは強引に昼食のお招きに預かった藍は、拓郎のアパートの部屋が全部すっぽり入ってしまいそうに広い、大家宅の居間にいた。
二十畳の和室の一角に置かれた、大きな家具調コタツ。
そのコタツの指定席だという座布団の上に『デン』と横たわる、コロコロした丸いフォルムの二匹の生き物は、猫と言うよりは良く肥えた狸を思わせる。
拓郎と出会った公園で見かけた『ヒマラヤン』もかなり大きな猫だったが、こちらの方が毛足が短い分、余計に肉付きよく見えた。
「大きい……ね」
正直な驚きの言葉が口を突いて出る藍に、恵が案内係よろしく二匹の紹介を始めた。
「えっとね。茶トラが、『ちゃーちゃん』で、黒いのが『クロスケ』って言うの。ちゃーが女の子で、クロスケが男の子なの」
――茶色いから、ちゃーちゃん。黒いから、クロスケなのかな。
なんて分かりやすいネーミングだろうと、思わず藍の口の端が上がる。
「よろしくね。ちゃーちゃん、クロスケくん」
藍が手を伸ばしてそっと頭を撫でると、猫たちは気持ちよさそうに目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。
可愛い――。
そして、とても温かい生き物。
幼い頃から図鑑でしか見たことがない猫は、こんなにも温かい生き物だったのだ。
「えっとね、ちゃーちゃんは、もうすぐお母さんになるの」
「え? お母さん?」
恵の説明に、そう言われれば、茶トラの方が恰幅が良いような……と、藍は改めて『ちゃーちゃん』の見事な太鼓腹を見詰めた。
ここに、新しい命が宿っている。
『百聞は一見に如かず』
知識の上だけでは感じられない、神秘的な命の営みに対する感動を、藍は驚きとともに実感していた。
「そう、赤ちゃんが生まれるのね」
「うん。たくさん生まれるから、お姉ちゃんにも一匹あげようか?」
「え?」
恵の思わぬ申し出に驚いて、藍は目を見開いた。
猫を飼う。
確かに、子供の頃からの密かな憧れだったけど……。
「あ、家のアパートペット可にしているから、猫を飼ってもOKなのよ。嫌いでなかったら、一匹貰ってくれると助かるわ」
コタツに昼食の手巻き寿司セットを広げていた君恵が、ニコニコと言う。
「あ、嫌いじゃないですけど……」
ただでさえ居候の身で迷惑を掛けているのに、ペットまで飼いたいなんてワガママのような気がして、藍は口ごもった。
「ああ、芝崎君の事を気にしているなら、心配ないわよ。元々は彼が連れてきた猫たちの子供なんですもの、喜んで引き受けてくれますとも」
うんうんと頷く君恵の鶴の一声で、近い将来、藍は始めてのペットを飼うことになりそうだった。
三日後の夜。
仕事を終えた拓郎は、少し複雑な気持ちで帰路についていた。
もしかしたら、もう藍はアパートに居ないかもしれない。家に帰ったのなら、それはその方が藍本人のために一番いいことだろう。自分も、新聞の三面記事のネタになるリスクを回避出来て、万事丸く収まり言うことはなし。
そう思っているはずなのに――。
薄闇の中。
自分のアパートの部屋に灯る窓の明かりが、どうしてこんなに温かく感じるのだろうか――。
「芝崎さん。お帰りなさい」
藍の、満面の笑顔が拓郎を迎える。
屈託のないその笑顔には、何の思惑も見えない。そこにあるのは、拓郎の帰宅を素直に喜ぶ純粋な笑みだ。
単に、こういうシチュエーションを心のどこかで願っていたのか。それとも――。
「……ただいま」
自分自身でも捉えきれない己の感情に戸惑ながらも、答える拓郎の顔にも、確かに微笑みが浮かんでいた。