部屋の灯り 2
冬の朝の、澄んだ空気が心地よい。
藍は、寝室の開け放した南向きのベランダの窓から外を見渡すと、一つ大きく深呼吸をした。
午前八時。
路地奥にあるこのアパートの周りにも、朝の活気が溢れていた。
ジョギングをする中年の男性。のんびりと、犬の散歩をする主婦らしき人。足早に学校へ急ぐ、学生の群れ。
穏やかで、そして当たり前の風景。
その全てが、藍には新鮮だった。
――何をしようか?と思案の結果、まずは家主さんへの恩返しの気持ちを込めて、部屋の掃除をすることにした。
元々そんなに散らかっている訳ではなないが、やはりそこは男の一人暮らしの部屋で、『隅の方に埃がこんもり』としているのを見つけたのだ。
寝室の和室には家具らしいものは洋服ダンスとサイドテーブルくらいしかないので、LDKの方から始めることにした。と言っても、LDKの方も家具はコタツとテレビの置いてあるサイドボード、ステンレスのパイプラック位しかない。
後は、キッチン脇の壁際に置いてあるツードアの冷蔵庫。食器類は、キッチンの洗いカゴに全部収まってしまう数しかないので、食器棚もないのだ。
独身男性の部屋など他に見たことがない藍には、それが普通と比べて多いのか少ないのか判断が付かないが、自分が使っていた部屋と比べると、『何も無い』に等しく思えた。
掃除をするには楽だが、藍は、なんだか寂しい気がした。
さすがに、『はたき』は置いていないようなので、雑巾を固く絞って窓のサンや家具の上の埃を拭き取って行く。
「前田さん、心配しているかしら……」
ふと、子供の頃からの世話係だった優しい女性の顔が浮かんだ。
こう言う掃除の仕方はその人が教えてくれた物だった。
掃除だけではない。料理や裁縫、勉強に至るまで、生活していく上で必要なことは彼女にみんな教わった。
両親のいない藍にとっては、『母親』そのものの女性。その人にも、もう会うことは出来ない……。
体を動かし、上向きになりかけていた気持ちが、また沈み込みそうになったときだ。
ピンポーン。
不意に玄関のチャイムが鳴り響き、藍は、ハッと我に返った。
ピンポーン。
続くチャイム音に、思わず全身の動きが止まる。
――誰?
まさか……。
その場に固まったまま、身動きが出来ない。
鼓動がドキドキと跳ね回る。
一瞬、『居留守を使ってしまおうか?』と言う考えが頭をよぎった。でも、窓は開け放してあるし、玄関自体に鍵を掛けていないので、このまま黙っていてもドアを開けられてしまえば隠れようがない。
ドアを開ければ、遮るものは何もないのだ。
足音を忍ばせて、奥の寝室に逃げ込めば良さそうなものだが、そこまで考えが回らなかった。
トントン!
「おはようございます」
ノック音の後に聞こえてきたのは、張りのある中年女性の声だった。
「女の子、いないのぉ? おばあちゃん」
今度は、ハイトーンの小さい子供の声。
「う〜ん、芝崎君の話からすると、まだ居るはずだと思うけど……」
芝崎さんの知り合い?
ここは彼の部屋なのだから、そう考えるのが妥当だろうと思われた。ならば、藍が警戒する必要は無いはずだ。
藍はおそるおそる玄関前まで歩み寄り、意を決してドアに手を掛けた。
「おはようございます。大沼 藍ちゃんね。私は佐藤君恵、ここのアパートの大家です」
ドアの向こうには、そう言ってにこやかに笑う五十代後半くらいの、ふくよかな女性が立っていた。
「おはようごじゃいますっ!」
一緒にいた五歳くらいの小さな女の子が、ニコニコ満面の笑顔でペコッと頭を下がる。
藍は思わず、へなへなと肩の力が抜けてしまう。
――そうよね。
いくら何でも、昨日の今日で居所が知られる訳がない。
「お、おはようございます」
ニコニコ笑顔のままの君恵に『ぺこり』と頭を下げながら、芝崎さんの留守中に一人でここにいる経緯をどう説明しようかと、せわしなく考えを巡らせる。
でも、結局。
「あの……。芝崎さんは、仕事に出掛けているんですが……。帰りは、三日後だそうです」と、 何の芸もない答えしか出てこない。
そんな藍を不審がる様子もなく、うんうんと、『分かっているわよ』と言うように君恵は頷いた。
「今朝ね、芝崎君が家に寄って行ってね、『女の子が家に居るから、自分が留守の間、お願いします』って頼みに来たのよ」
大家さんは『バチン』とウインクをすると、楽しそうに目を細める。その優しい笑顔は、なんとなく世話係の『前田さん』に似ていた。
「あら、おいしい!」
勝手知り足る店子の部屋。
君恵は拓郎の部屋のコタツに陣取ると、藍が入れた日本茶を一口口に含むと、驚きの声を上げた。
安物であるはずのそのお茶は、これ以上ないくらい上手くいれてある。
日本茶に限らず、お茶という物の旨味を引き出すには、お湯の温度、茶葉を蒸らす時間、湯飲みに注ぐタイミングなどのちょっとしたコツが要る。
昔は家庭生活の中で、母から娘へ自然と受け継がれた物だが、近頃はそれを成されることも少なくなっている。そう言うことを、キチンと教えられている娘だ。
「ありがとうございます。お口に合えば嬉しいです」
「うん。とても美味しいわぁ。藍ちゃん、お料理も好きでしょ?」
「はい。お料理は大好きです」
――芝崎くん。
いい娘、つかまえたじゃないの。
君恵は正直ほっとしていた。
拓郎は、大事な親友の忘れ形見。生い立ちの複雑さから、他人に対して少し冷めた所がある拓郎に、早くいい人が見つかってくれれば良いと常々思っていたのだ。
直感だが、この大沼藍という娘は、拓郎の頑なな心を溶かしてくれるような気がした。
君恵はニッコリ笑うと、何処か寂しげな遠い眼差しを開け放たれた窓の外に向けた。
「芝崎君、ああ見えて苦労人でね……。ご両親の事は聞いている?」
「はい……。子供の頃、事故で亡くされたとか……」
「あれは、ひどい事故だったわ……」
ポツリと呟くと君恵は、遠い日の悲しい記憶を辿った。




