八章『涙の国のありす』
黒い炎が空を灼き焦がす。
比喩ではない。
それは現実の物理現象に反した色彩を見せながら有機物無機物を問わず触れるものすべてを焼却していた。
「なんということだ……こんなことが許されるというのか……神よ!」
灰は残らない。
炎に見えるそれは現実という世界に対しての比喩であって、実際には、定義しがたい未知の何かであるがゆえに。
黒い炎に接したすべては例外なく存在を――実在したという明確な証明さえも喪失させられ消滅していく。
「これが彼の願い……望み……そうなのか。だとしたら、あまりにも残酷すぎる」
炎よりも真夜中の闇は薄い。
男が身にまとう古典的な燕尾服も黒い。
が、おのれ以外のすべてに対し敵意と悪意を向けてくる炎のそれよりは地味だった。
黒い炎は霊峰のふもとに広がる森と前衛的なデザインの建造物群を呑み込んで、その猛威を拡大させつつある。
極東に位置するこの島国の中でも、最高峰として知られる霊山。その周囲には観光・保養の施設が無数に林立する。溶岩流めいた災厄そのものである炎はそれらをも呑み込んで、見る間に太古からの原生林を――そして何もないはずの空間そのものを喰らい尽くし、侵食していく。
「これが彼の望みだとしても、このままでは――」
男はポケットに手を突っ込むと、そこから一枚のカードを取り出す。
日本ではトランプ、海外ではプレイングカードと呼ばれているそれだったが、図柄は白紙であり何も印刷されていない。
「待って! お願いお父様!」
燕尾服の男の後ろから声と共に走り寄ってくる少女。
「いけないアリス。下がっていなさい。これは夢も現実も等しく滅ぼしてしまう終末の炎だ。ヤケドなどではすまないのだよ」
「でも! 司波が泣いているの! アリスには聞こえるの!」
少女――というにはアリスは幼すぎた。
父親と同様に典型的な欧米人の六歳児程度に見えるアリス。
長い黒髪と紫色の瞳。
そして彼女の物語と存在を象徴する普遍的な青と白のエプロンドレス。
「約束したの! また遊ぼうって! 今度は司波のいるこの国で! ここの夢で!」
「それは無理だアリス。彼はね、おそらくアリスのことも忘れてしまったんだよ。そうでもなければ、こんな結果を招くはずがない」
黒い炎が父と娘に迫っていたが、手にしたカードをかざすと、その一帯だけ不可視の防壁が生じて守られる。
「そんなことない……そんなことない……司波はアリスのことを忘れないって……そう約束して……くれたもの」
「だがねアリス、今までどんなに仲良しになった子だって、大人に近付くと夢と現実の区別をつけて……夢を夢として現実の中で忘れてしまう」
「でも司波は忘れないって!」
「では彼は異常なんだ。もう、おとぎ話は必要ないはずなのに……ちがうか。彼が異常だったわけじゃない。彼はその周囲の大人たちによって異常になるように仕向けられていた。だから、こうなった」
男は霊峰の稜線を黒い闇に染め上げていく炎を見つめる。
「まだ間に合う。お父様が彼とあの炎を、現実からも夢からも隔離して消し去る」
アリスの父は手にしていた白紙のカードを空高く掲げる。
「アリス、手を出しなさい。本来ここは《牡牛座》が受け持つ領域だが、不在の今、この場に居合わせた《幻想代行者》として活動する義務がある」
そして、空いている左手の先を娘に対して伸ばす。
「いやっ! アリスは司波と、これからも遊ぶって約束したの!」
だが、彼の愛娘は父親がすべてを消し去る力を解放するのを拒んだ。
それは彼女の同意無くしては発動できない性質を持っている。
「司波ーっ! アリスだよ!」
父に背を向けアリスは黒い炎の向こうに呼びかけた。
それだけではなく、伸ばされた手を振り切って走り出してしまう。
「くっ!」
舌打ちしつつ、男は手にしていた白紙のカードをアリスの背中を目がけて投げる。
「記述開始!」
男――《記述者》であるルイス・キャロルではなく、その娘アリスの身体を包むようにして無数のアルファベットの連なりが生じ、明滅する球状の場を造り出す。
アリスを呑み込もうとした黒い炎は、その輝きに阻まれたが後退してくれない。
漆黒の邪竜を思わせる蛇めいた闇が、自身の身体を鞭のように、しならせ、未だ発動されず待機状態の呪文たちを打ち付けて揺るがす。
「こ、こんなのアリス、怖くないんだからあ!」
ガタガタ震えながら虚勢を張り、アリスは彼女と仲良しになった男の子の姿を求めて、視線を闇の奥深くに伸ばしていく。
「チェシャ! アリスを手伝って!」
父親と同様、アリスが手をかざすとそこにカードが出現する。
そこにはユーモラスな顔の眠たそうな猫の姿が描かれていた。
「うにゃあ」
アリスの切羽詰まった声と対照的な、けだるそうな、わざとらしい鳴き声が応じる。
瞬時にカードは霧散し、彼女の黒髪からデフォルメされた猫の耳が生え、スカートの下からも長い尻尾が伸びる。そして瞳は猫のそれのような光彩に変じて絞られた。
「司波は……どこ?」
拡大された視覚と聴覚が、アリスに探し求める男児の居場所を教えてくれる。
「アリス! そんなことをしても無意味だよ。早く呪文を選ぶんだ! この場を鎮めて未然に危険を防ぐための――戦いのための呪文を!」
「やだ!」
追い付いたキャロルがそう促し、呪文が構成する球状の場に手を伸ばすが、アリスの意志は呪文の成立ではなく父親を拒絶し突き飛ばす。
「誰だよ……そこにいるのは?」
かぼそく、弱々しく響くそれはアリスの切羽詰まった表情を一瞬だけ明るくさせた。
「司波!」
駈け寄った――駈け寄ろうとしたアリスだったが、その姿を目にしたことでの驚きと恐怖が、知覚を増幅するかわいらしい変身を解除させてしまう。
「アリス……だよ?」
それでも彼女は震える声で呼びかけはした。
自分の姿が見えるように、思い出してもらえるように、父が出現させた呪文の束も腕を払い消し去った。
「絵本の……童話のあのアリス……か」
黒い炎の勢いが減じ、アリスの目の前には凄惨な情景が広がる。
「アリスの声に応じて……くれただと?」
娘に拒絶されて倒れ伏し、起き上がったキャロルが眼前の光景に反応し目を見開く。
くぐもった声による断定を下したその男児の足下には、無数の死体が散乱していた。
かろうじて顔の原型は留めているが、大半の死者は恐怖と絶望を浮かべたまま、四肢をねじ曲げられ、皮膚をめくられて筋肉や内臓をむきだしに死に絶えていた。
生前のまともな姿を保っているのは彼の両腕に抱かれた、たったひとりだけ。
「ちがう……洞窟を出たあとで、いっしょに森を探検して……そうだ! きらきら星を歌ったアリスだよ?」
亡骸たちがまとう、インドの民族衣装であるサリーを模した独特の浄衣。
真言密教を基礎に世界中の宗教や神秘主義から無節操に用語や教義、概念を剽窃し合成した、洗脳と集金システムとしての、あるカルト宗教に属している証明だった。
「それは夢だよ……おれがここで見た、ひとつだけ良かったこと……不思議な夢の話だ。本当に……本当にあったことじゃない」
現実であることを否定する言葉ではあったが、その夢自体をなつかしみ大切に思うニュアンスを読み取ったことで、アリスの失意と落胆は少しだけ慰められた。
「何が……どうなって、こんなことになっちゃったの司波?」
これからのことでは助けられる、お手伝いできるよ、との意味が込められた、事情を尋ねる心配そうなアリスの言葉。
「それは――」
両腕で抱え上げている妹の亡骸を見つめて述懐を始めようとする司波。
「やっぱりだめだ。たぶん、その話をしたら、アリスは泣く……そんなのだめだ」
司波にとって目の前の女児は、記憶さえあいまいとなった夢の中での幻影でしかない。
それでも彼女を泣かせたくない、苦しめたくないと心が動く。
肉親すべてを喪失した彼にとって、もはや夢の中で親しんだ彼女だけが他者との絆を感じられる唯一無二の存在となっていたからだった。
「泣かない。アリスは司波のお話、ちゃんと最後まで聞くよ」
彼の心の安定が反映されたように周囲の空間を侵食していた黒い炎は鎮まっていく。
だが――
「サン・ジェルマン。おまえが言う、その彼の望みをかなえることこそ私の使命」
馬上の《黒騎士》は、葉巻の紫煙をくゆらす竹内志門を見下ろしつつそう宣告した。
「しかし、ここで私に付き合ってもらっている以上、それは難しいのでは?」
気の毒そうな顔で竹内は黒い鋼の面頬に覆われた《黒騎士》を見上げる。
「やはり、時間稼ぎだったな。私を拘束することで、現実世界と夢の世界のどちらにも干渉が不可能な状態に追い込み、勝ったつもりでいるか」
「私は荒事が苦手なのでね。平行世界を統合せんとする《上帝》だの、ルール破りをする不作法な《界渡り》を相手取るには小賢しく立ち回るしかない」
「平行世界? 《界渡り》だと? まるで本当に自分がそうした世界観を知っていて、それら諸世界が実在するかのような言葉だな」
「少なくとも私はそう認識している。あなたにしても夢想はしたはずだ。別の可能性が存在したならばと。アリス・プレザンス・リデル嬢と――」
その名はルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンにとって特別な意味を持っていた。
「アリス・リデルとの何を夢想したと言いたい?」
リデル家の娘である幼い三姉妹のひとりアリス。
初夏の日の川遊び。
キャロルと友人が漕ぐ小舟の客となったアリスたちを楽しませるために紡がれた奇想天外な即興のおとぎ話。
ある女の子がでたらめな世界を巡る冒険。
それを私家版の本とした《地下の国のアリス》こそ《不思議の国のアリス》の原型となった物語。
その主人公こそは――
のちにエリザベス女王の四男と交際するも結ばれることなく別れ、彼の娘にもアリスという名を冠する由来ともなったという少女。
レジナルド・ハーグリーヴズという大地主の男と結婚した女性。
彼女こそルイス・キャロルにとっては真のALICEたる存在だった。
「ひどく下品な想像を巡らせた、後世の伝記著述家たちのように、あなたを特殊な性的嗜好の持ち主だなどと断じるつもりはない。道徳や廉恥心には尊ぶべき一面もあるが、それが人生のすべてを支配するべきではないというのが私の見解だ」
《黒騎士》の馬上槍とそれを保持する腕は震えていた。
「私が生きた時と場では、裸身や異国の装いをまとう子供たちの写真やスケッチを記録することは芸術だった。子供たちにもその親にも望まれていた」
怒りと屈辱に震えながらキャロルは言い訳を続けた。
声はこれまでより落ち着いて聞こえたが、それは自ら抑制を心掛ける証拠でもある。
「小児性愛者だったという下世話な指弾より、成長した彼女と結ばれることで、リデル学長の閨閥に入り、栄達することをひそかに期待していたという説はどうですかな?」
アリス・リデルの父はキャロルが奉職していた大学の学長。
そしてキャロルはその部下に当たる数学講師。
「黙れサン・ジェルマン」
《黒騎士》の震えが止まっていた。
「しかしながらあなたは――アリス・リデルとの交流で、それ以外の何かを見いだしてしまった。だからこそ――」
「警告だ。それ以上、私を怒らせるな」
「ゲーテはご存じのはずだ。ファウスト博士が、あらゆる欲望を満たし、その魂を悪魔メフィストフェレスに捧げると誓う言葉……あなたにとっては《ALICE》の物語を描くことが、それに相当した」
「時よ止まれ……汝は美しい、か」
「あなたは彼女を物語として永遠の存在に昇華させた。厳密には、あなたと彼女の合作としてね。だから物語の彼女はあなたを父として慕う。そして《記述者》とはいえ、その命は有限。あなたは死して久しい。だが物語の中には《白騎士》として――」
言葉が終わるのを待たず馬上槍の先端が閃き、竹内の左胸を貫く。
「ぬは……うッ?」
風に散る一枚の葉も同然に西洋人紳士の姿は宙を飛び、純喫茶サンジェルマンと記された店の看板に叩き付けられ、力なくアスファルトで舗装された路上へ落下していた。
「おまえの詐術と言いくるめなど、散財だけが能の王族や貴族相手にしか通用しない。私は征く。彼女の名を汚すまがい物を一掃し、浄められた世界を造るために」
軍馬の装いをした黒い一角獣とその主は、ぴくりとも動かない竹内に背を向けた。
「だ、旦那あぁあああっ?」
事の成り行きを見守っていた店内から伊吹高仁が飛び出てきて、路上に転がる竹内を介抱しようとする。
「もし息が有れば伝えておけ。私が憤ったのは、後世のくだらぬ中傷などにではなく、彼女の存在を単なる政略と権勢の一手段におとしめて評したことにある、と」
そう告げると馬上の孤影は夕日が作る陽炎の中へ、ゆらめきながら遠ざかっていった。
「……夢の中で寝て……夢を見て……ひとつ手前の夢の中で起きる……か」
アリスと共に過ごした冒険の記憶が回復した今の司波にとって、さほど頭を悩ませる現象では無かった。
「うちの中学じゃねーな。たぶん龍崎せんせーとクリス……あと、その姉貴が通ってたとこの保健室ってとこか」
そこが中学か高校の保健室で、そのベッドに自分が横たわっているというのは周りの風景を見て察することができた。
部屋の照明は点いていない。
窓の外から差す夕闇の朱が現実感を虚ろにさせている。
ありすと共に黒湯の浴槽に浸かり、うたた寝している最中に迷い込んだ中島クリスの夢に入り込み、その一層目の夢の中で激しい頭痛に襲われ気絶したことで、さらに深い二層目の夢に入っていたという認識が働く。
「最後に見たのが、俺とクリスが最初に会った時のだから……クリスの夢の二層目だとしても――」
激しい頭痛に苦しめられ意識を喪失していた彼は、二年前以前の過去でアリスとその父に出会った事実を夢として見て、思い出してしまっていた。
「あれは俺が見た夢。そして都合良く忘れてた二年以上前の過去」
無人の保健室。
司波自身の述懐が途切れると陰鬱な沈黙だけが残る。
断片的に取り戻せた過去は……自分と妹の有理子が、交通事故で両親と死別したことで、裕福なおじ夫婦に引き取られたこと。
おじ夫婦が事業の傾きに比例して、あるカルト宗教の信仰と祭礼に没入し精神の平衡を失い、ついには全財産と家族をも献納してしまったこと。
出家という名目で、富士山麓のふもとにある教団施設に監禁も同然の状態に置かれてしまい、そこで教祖や上級幹部たちの奴隷として働かされていたこと。
「なんだよ。クリスが見せてくれた地獄って……めちゃくちゃに笑えて楽しいじゃねーか……冗談きついって……ハハハ」
虚ろな笑いは、かえって寂寥感を増してしまうばかり。
「有里子が……あんな真似して俺のメシを持ってきてたなんて……クソ教祖と取り巻きのイカれた連中の実験台になった俺が……アリスを」
教団には集金システムとして真言密教系の宗教らしき体裁と、手品まがいのトリックによる演出された奇跡が存在した。
だが教祖と取り巻きが、無節操に寄せ集めた神秘学の知識を興味本位で実践し続けたことで、何名かの子供たちに不安定な超常的能力を発現させるという偶然を達成。
一条司波はその一例となった、
彼は世間的に表向きは失火による山火事とされる大量事故死を招き、結果として教団施設を全損させ、生存者は一名だけとされた事件を引き起こしたのだった。
「アリスを殺そうとした……世界なんか滅びちまえばいいって……」
あおむけになって天井を見上げたまま司波は、頬を伝う涙を放置していたが、廊下の外からのノック音に、あわてて腕で拭い痕跡をごまかす。
「ありすかー? 俺はぶっ倒れて、それでここに寝かしてくれたのか?」
かろうじて陽気な声で呼びかけた司波は、アリスと彼女の父である《白騎士》こと、かつて《記述者》であったルイス・キャロルをも敵と見なし討ち滅ぼそうとした事実を思い起こす。
すべてを消し去る黒い炎を武器とした司波は憎悪と憤怒の感情に呑み込まれてアリスと《白騎士》に襲いかかり、敗れ、鎮火した後の瓦礫に倒れていた。
この時点で司波は、それ以前の過去の記憶をアリスによって呪縛され喪失している。
身寄りを失った司波は施設に預けられて、偶然にも同じ一条という姓の夫妻に引き取られて養子となった。
有里子の生まれ変わりのように妹が産まれ、それからしばらくの間、穏やかな時間を過ごしてきた。
二年前、イギリスへの家族旅行の帰路で、あの航空事故が起きるまでは。
「お邪魔するね」
ドアを横にスライドさせて入室してきたのは彼とアリスとの娘では無かった。
「ありすって子じゃなくて、ごめん」
視線を合わせぬように下を向く中島あゆみは司波が寝ているベッド脇で立ち止まった。
「俺の方こそ……さっきは悪かった」
いつものようにクリスと呼んで軽口を叩けない司波も気まずい返事をするしかない。
少なくとも背丈だけは司波の法的保護者であるところの中島クリスとは同じだけに、どうも調子が狂ってしまう。
喪失していた記憶が、ほとんど完全に回復したショックの影響もある。
「ちょっと、かくまってもらいたいんだけど、いいかな?」
先刻とは異なり司波が冷静だと判断してか、あゆみは、ちらりと視線を向けた。
「お姉ちゃんが、うるさくてさ」
彼女を困らせているのが、夢幻境から抜け出て地上に出現する《悪夢》のたぐいや《黒騎士》ではないと知って、起き上がった司波も素直に首を縦に振った。
「ありすは……俺の連れはどうしてる?」
最初に司波が口を開き、やや間を置いてからあゆみが応じる。
「お姉ちゃんと意気投合して遊んでる」
『喰らええーっ、ありす! ぐるたみんあしっどしゃわーキャンセラーっ!』
『ふぎゃーん! クリスそれ反則! 無しーっ!』
「ほら。聞こえるでしょ?」
保健室近くの廊下を、どたどた走り回る足音と声に、司波は苦笑しつつ安心。
「そっか。ならいい」
「気楽ね。倒れたあなたのこと、みんなでここに運んだら舞はどこかに行っちゃうし、クラスの人も先生もいない。何がどうなってるのか、わけ、わかんないってのに」
「誰もいない?」
「そうよ。なんだか逆神隠しにでも遭ったみたいで気味が悪い」
「それって……普通に神隠しに遭ったって言うんじゃないのか?」
「なに言ってんのよ。あたしがいて、あなたがいて、お姉ちゃんと、ありすって子がいるんだから、他のみんなだけ消えてる。立派に逆神隠しでしょ」
「まあ……そうかもな」
と、二年前に文字通りの神隠しに遭ったことになっている司波がまた苦笑。
「あたし、笑われるようなこと言ってないつもりだけど?」
むっとした顔で、あゆみは司波をにらむ。
戸籍や身元の確認が終わってから、今の中学に転入を認められ、その登校初日に通学するふりをした司波が。歌舞伎町のゲームセンターで彼女に見つかった時にだけ、見たことがある表情だった。
「……実は俺、神隠しにあった経験者なんだぜ。だから笑った」
『さぼるのはいいけど正々堂々とね。あと、いじめとかそーゆー問題があるんなら、あたしにだけは打ち明けるよーに』
との言葉を思い出しながら司波はあゆみに説明した。
「本当?」
敵意になりかけていた、あゆみの反発は驚きに変わる。
「ああ、ウソじゃない。ついでに記憶喪失ってやつにもなってたぜ。一年前から前の分までは、きれいさっぱりな」
「その……ごめん」
「あやまる理由が無いのに頭を下げてると自分が安っぽくなっちまうぜ。俺は、記憶を取り戻したはいいけど、壮絶すぎる自分の過去に打ちのめされてるってだけさ」
中島クリスから施されたエリートオタク教育なるものは、男子向け女子向け幼児向け成人向けを問わぬ無節操な代物ではあった。
「……基本的にヒマ潰しなだけだと思ってたけど……意外に……気休めにはなる。ここで悲壮感たっぷりに深刻な顔してても――」
司波の妹、有里子は生き返らない。
事業が傾くまで優しかったおじとおばが、自分たち兄妹を教団に売り飛ばした過去は変えようがない。
不妊が解消され実子が産まれてからも司波を自分たちの子として遇してくれた養父母、そしてもうひとりの妹も生き返らない。
こことは平行世界で、さらにその七年後だという場で出会ったジェイムズが、破滅的状況に陥った彼らの世界は、過去に干渉しようがしまいが、どうしようもないといった内容を口にしていたことも司波は思い起こす。
「どうせ昔のことがどうしようもないなら……今の自分でやれることをやるしかない。とりあえずは――」
中島あゆみを見つめ、司波は決意を固めた。
けさ、夢幻境から来たありすを除けば、たったひとりの彼の家族。
夢であるこの場において、どういうわけか、その自我は中学生時代の認識となってしまっている彼女。
「そろそろ起きてくれると、経済的に依存している被保護者としてはありがたいな」
それは、大切な家族である彼女の過去の姿として目の前にいる中島あゆみに対しての、穏やかな提案だった。
ありすと自分とが招かれた事実から突発的な緊急事態が発生すると警戒し、おびえて、性急な認識の回復を迫った前回の訴えとは異なっている。
「寝起きはいい方だったと思うけど……朝メシ、と、もう夕方だから晩メシだな。リクエスト受け付けるぜ」
「意味わかんないよ……ええと……一条だったよね?」
「司波でいい。一条司波だ。俺もあゆみって呼ばせてもらう」
「馴れ馴れしい態度って嫌い」
「おまえがそれを言うかよ。ありすに聞かせてやりたいぜ」
「……あの子の父親ってのは本当?」
「正真正銘の本家本元で元祖だ」
「なにそれ?」
「ぶっちゃけると俺は異世界に召喚された過去がある伝説の勇者様ってやつなわけだ。で、異世界での冒険中に、ありすの母親と深い仲になってた。以上、説明終わり」
「それを本気で信じると思う?」
「じゃあ証明してやるか。俺は《特異点》で、あと《記述者》らしい。一日に四回だけ魔法が使える。Aから始まる単語か短文でイメージできる効果限定だけどな」
司波はベッドから起き上がってスニーカーを履き、夕日差す保健室の窓辺に立つ。
「……微妙に設定が細かいから信じたくなったけど、ちゃんと見せてから自慢して」
両腕を組んだあゆみは疑わしそうな目で司波をにらむ。
「一日に四回……素敵な響きね。それなら……いろいろやってもらおうかな」
「そう四回限定……っと、今日はもう一回使ってたか」
ありすが《黒騎士》の馬上槍で串刺しにされる動画を見せられた、今現在からは、約七年後に相当するという平行世界。
そこからの帰還直後に純白の巨神を発動させたので一回。
「ん? そのあとで、ありすのやつが手を伸ばしてきて――」
AはありすのALICEと叫んだありすが司波に力を貸し爆裂剛拳の発動を促している。
「ってことは合計で三回分消費してた。悪いな、あゆみ。残りは一回分だ」
司波には《AはありすのALICE》と叫んで、ふたりの力を融合増幅させたその力を、娘が発動させたとの自覚は無く、自分のそれだと認識していた。
「呪文の詠唱は? 魔法の発動に必要なアイテムとか魔力とかは?」
「えーっと……」
答えに窮してしまう司波だが無理もない。
彼は漠然とそれらすべてが、未だ人類の科学では検証されていない事象だとの概説を、夢幻境内の冒険で聞いたことがあるだけだからだ。
「人類の集合的無意識が造り出す《想像》の力……それゆえに発動させる《記述者》が必要と思えば、その通りとなる……ってのだったと思う」
アリスが語っていたそれを、しどろもどろに引用するが、あゆみの疑念は解けない。
「それって主人公体質で、都合良くなんでもありにできるって言ってるのと同じ」
不愉快そうに、あゆみは両腕を組むと司波をにらみつけた。
「論より証拠だ。記述開始!」
Aの文字が明滅する右手の甲をかざすと、無数のAから始まる言葉たちが呪文の束となって球状に展開していく。
目の前に、この夢を見ている中島あゆみ本人がいる。
穏当な会話で、これが夢であると認識させれば、アリスから教わった呪文を使わずとも無事に現実世界へ戻れるだろうとの判断で、司波は呪文を使うことを決めていた。
「す、すごい! 一条あんた本当に魔法使い?」
数々のフィクションでそうした情景を観賞してきた中島あゆみだったが、眼前に展開された《記述者》の力には素直に目を見張り、驚くばかり。
「腹も減ってるし喰い物でも出すか。ソースやきそばにでもつながってくれそうな、Aから始まる英語は――」
「もっとマシなごはんにしてよ一条」
「大好物のはずなんだけどなあ……」
少なくとも中島クリスの場合は、と司波は思うが、食生活の変化があったのかもしれないとも考え、言及は避けた。
「あ……やばい」
ついつい調子に乗って呪文を発動させたはいいが、いまさら大事なことを司波は意識した。
「悪い、あゆみ。やっぱ呪文使うのはキャンセルだ」
「えーっと、なんで?」
「この夢から起きるのに……たぶん呪文を使う必要がある」
それはアリスとの冒険で、夢幻境内での個々の存在たちの夢にダイブし帰還してきた例からの推測だった。
《悪夢》の影響下あるいはその侵食を受けやすい状態の夢は、もろい。
当人の精神状態にマイナスの効果を与えず、そこから退去するに当たっては、呪文の使用が適切なのだった。
ある意味で最強で最大の呪文であり、いかなる《悪夢》も、これの前には対抗しようがないものだとアリスはそう説明していた。
あゆみとしてのクリスも落ち着いてる感じだし、このまま呪文を使って起きちまった方がいいのかも。
思案する司波を置いて、ある文字の連なりが強く明滅して、そっと彼の指先へと触れ、ひとりでにその効力を発揮した。
『おはよう、こんにちは、こんばんは、ええと、あとは、ごきげんよう』
球状に広がった無数のAたちは消散し、司波のすぐ前にはある少女の姿が出現する。
発動するその直前に司波が目にした呪文の言葉は――
Alice's message
『それから……アリスは、ごめんなさいをするね。ずうっと先の、たぶん、かっこいい大人になってると思う司波に』
忌まわしい過去の中で、司波の救いとなった黒髪の、ちいさな女の子。
二年前に見知らぬ他者として再会した時より幼い、初めて夢の中で出会った頃の姿のアリス。
「……アリス」
手を伸ばす司波だが、半透明のアリスの髪をなでることはできず突き抜けるだけ。
『このまま……今のままで、つらいことや、痛いこと、気持ち悪いこと、怖いことを、ぜんぶ、おぼえてたら……司波の心と気持ちがボロボロになって破裂しちゃうの』
幻影のアリスが語る《今》とは、彼女がその姿であった往時――十年前なのだと司波には理解できた。
『だから、いけないってアリスわかってるけど……ずるだってこと、わかってるけど、ひいきはしちゃいけない、いけないことって、お父様に叱られちゃうけど――』
アリスは後ろめたそうな表情で、うつむいていた。
『司波がもっといろんな人に会って、たくさん楽しい時間も過ごして、つらい思い出に負けないようになるまでは……いろいろまとめて、ひっくるめてになっちゃうけど……アリスが預かるからね』
「アリス!」
幻影のメッセージは司波を認識できず、反応することはない。
『もうお父様に頼らない。お任せになんてしない。これがアリスの《蟹座》の《幻想代行者》としての……本当の意味で初めてのお仕事だよ』
ようやく、そこでアリスは顔を上げた。
『ちょっと怖いけど……初めてが大好きな司波を助けることだなんて素敵。アリスうれしい』
目尻に涙をたたえた泣き笑いの表情で。
『それじゃあ……おやすみなさい。ううん、おはようになるのかな』
立っていた司波はアリスの幻影の前に崩れ落ちてひざ立ちになり――
『きっと、もう夢の中でしか思い出してくれないと思うけど……初めて会った時に、いっしょに歌ったあれでお別れするね』
『やめろっ! やめなさいアリス! これまで通りに私が! お父様が忌まわしい夢を預かる! そんなことをしてしまえば、おまえは汚れる! 愛らしい無垢な少女では、いられなくなってしまうのだよ?』
姿は見えず、ルイス・キャロルの声音だけが重なって怒鳴る。
『き~ら~き~ら~ひ~か~る――』
今にも泣き出しそうなアリスが、童謡として有名な《きらきら星》を調子外れに歌い始めたところで不意に幻影は途切れて、メッセージは終了した。
淡い光の波紋が輪になって風のように司波とあゆみを通り抜けていく。
「あ……あたし……それにここって夢……あの頃……の」
あゆみは当惑気味に周囲を見渡したが、すぐに別のことに目を移した。
「っく……うあ……あ……」
ひざだけではなく、両手をも床に着けた司波は四つん這いになり、くぐもった嗚咽を漏らすことで慟哭をごまかそうとする。
「ねえ司波……っと一条……」
「ッ……なんだよ……頼むから……黙ってて……くれ」
「あたし、よくわかんないけど……きっとその子は……あんたのことが、大切なんだと思うよ。だから男の子だけど今は……泣いてもいい」
中島あゆみから中島クリスへと意識を回帰させた彼女は詳細な状況と経緯は理解していない。
それでも、アリスという少女が司波を大切に思い、心ならずも別離を覚悟していたという心の機微だけは受け止めることができていた。
「うあおおおおおッ! アリスううううっ!」
「一条も……その子のことが大好きだったんだね?」
「うああああああああああああッ!」
恥も外聞もなく号泣する司波と、いたわるようにその頭をなでるクリス。
「俺っ……俺は……なんにも思い出せてなかったのに……それなのに……あいつ……初対面の赤の他人のふりしてた……俺、どんだけ……残酷なこと……くううッ!」
喪失した過去を取り戻した司波は、幼子のように泣きじゃくることで、ようやく、ありすの来訪で知ったアリスの死を、韜晦することなく受け止められたのだった。
うつぶせに倒れた竹内志門を鷹野伊吹が抱え起こすと、馬上槍で突かれた左胸から、無惨に歪曲してちぎれかけたトランプカードが落ちる。
「旦那あっ! 生きてっかあ志門の旦那ァ?」
「……なるほど。また死に損なったらしい」
弱々しい呼気と共に発せられた言葉に伊吹も安堵する。
「自殺志願者だったとは知らなかったが……目の前でくたばるのは勘弁してくれや」
「そんなつもりは無いとも。見たまえタカくん。このカードに宿る幻獣グリフォンが、その生命の息吹で私をあの槍の一撃から救ってくれたのだよ。以前と同じで、助けられた」
起き上がりつつ、アスファルトに落ちたグリフォンの絵が描かれたカードを拾う竹内。
「どうせならアニメとかでやってるカードゲームのモンスターみたいに実体化して、役に立ってくれるといいな。以前にもって、あんた前にもあんなファンタジーの住人に因縁つけられたことあるのか?」
「その時はなんというか……ひどく厄介な構造の時空のねじれに翻弄されてしまってね。偶然にも近くに漂っていたこのカードを頼りに、まともな時空連続体へ転移できた」
「あんなハリウッド映画まがいの騎士とか見た後だからスルーしたいが、旦那が何を言ってるのか見当もつかない……SFも苦手だ」
「その借りを返したくて、あれこれと奔走はしてみたのだが……いやはや、かつてはフランス王を欺いた私の弁舌もなまったものだ。師ローゼンクロイツのごとく、心に訴えて妄念を絶つ《薔薇十字の祓い》とはゆかなかったか」
「わけがわかんねえな。やばいクスリでも決めたみてえな妄言はやめてくれよ旦那」
「しょせん私は傍観者や介添人であって、お節介はほどほどがいいという話だよ」
竹内はグリフォンのカードを大事そうに上着のポケットに収める。
「しっかし……夕焼けのまんまで……時計も止まってて……どうなってんだ?」
「十年前に、そして二年前にも保留されてきた選択が為されるのだよ」
「誰の? 何を決めるってんだ?」
「さて、ね。神のみぞ知る、といったところだろう」
竹内は伊吹が差し出す紙巻きタバコを受け取ると口にくわえ、悠々とオイルライターで着火した。
「だがまあ……ここで骨を埋めるのも悪くはない。流転の人生の果てが街の片隅にある喫茶店の親父というのも一興ではあるか。酒やタバコ、葉巻さえ存在しない清潔な世界というのだけはご免被りたいところではあるがね」
「あんた喫茶店の親父以外の何者でもないだろーが?」
「これは世を忍ぶ仮の姿。その正体は時空の放浪者にして、いかなる宝石の傷をも修復できる伝説の錬金術師さ。不死の人サン・ジェルマン伯爵と名乗ったこともある」
「……寝言は寝て言えや旦那」
「選択次第では文字通りの寝言や妄言だったことにされる。あるいは、そもそもこんな喫茶店もその主も存在していなかったことになる」
西の空で停止したままの夕日に紫煙をかざし、竹内はさびしげにつぶやくのだった。
ふたりは静かな歩調で校舎内の廊下を並んで歩いていた。
「それでね、最初は……お姉ちゃんの真似した」
アリスとの思い出と冒険を、ぽつぽつと述懐し終えた司波に対する返礼として、中島あゆみはどうして自分がマンガという形態で創作活動を始めたかを語っていた。
「中学に上がる前ちょうど引っ越しして、そこで初めて仲間……友達ができたんだ」
中島歩とその双子の姉の来未、龍崎舞、宮川弓音、佐藤時枝、藤原祐未。
六人の少女たちで作った歴史同好会に名を借りたオタクサークル活動。
東京とは名ばかりの、奥多摩の山奥にある中高一貫教育の学園。
大規模な都市計画に便乗して造られたそこで、彼女たちは同じ寮に暮らし学園生活を満喫していた。
「お姉ちゃんは中三の時に賞をもらってて、春から最初の連載が決まってた」
サークルの中で来未はリーダーであり、華やかな世界へのデビューを約束された頂点。
あゆみは姉が誇らしかった。
「それと同じくらいに、憎たらしかった」
性格的なものも含めて、彼女は内向的なあゆみに欠けたすべてを備えていたからだ。
鬱屈とした嫉妬心を伏せ、あゆみは舞の原作に助けられ自作のマンガを描き続けていたが、高等部への進学までに完成させるという約束は果たせずにいた。
「でもね――」
しばらく間を置かれても司波は急かさずに続く言葉を待つ。
「国際交流事業なんて名目で国がお金を出したから、高等部の始業式前に海外研修ってことで第二次修学旅行兼卒業旅行が決まったわけなのだよ」
「海外……か」
養父母ともうひとりの妹を航空事故で喪失した司波には、あまり良い印象はない。
「花の都パリ、フランス滞在7日間……だったんだけどさ……変なカルト宗教の人が自爆テロやらかしてくれて……バスに乗ってたみんなも巻き添えで……死んだ」
「……」
司波は顔を上げていたが沈黙するしかない。
「明日になるとね……成田に行って……その瞬間が近付く……はずなんだ」
あゆみの口調が変化しつつあること、そして語る内容が、中学3年生当時の彼女だとは思えない代物になっていることに口は挟まなかった。
ちいさなアリスの姿が消え去ってしまう瞬間にきらめいたあの光が中学3年生としての中島あゆみに対して記憶と自我の回復を促したのだと想像できる。
「親戚の法事で行けなかった舞と、お姉ちゃんにかばってもらったあたし以外は、もう誰もいないんだ」
「あゆみだけが……かよ」
司波は二度、それを経験していた。
「そうだよ。あたしだけ……ひとりだけ生き残った」
初めてあゆみに――中島クリスに会ったその時に、彼女が黒い喪服のドレスで墓地にいたことを司波は思い起こす。
「だからそれで《ふぃらめんてーしょん会》と《ハイパーボレアまじかる騎士団》は、解散。あたしと舞は高等部に上がってからサークル続けて……歌舞伎みたいにお姉ちゃんのペンネーム襲名もしたけど……《J&J》っていうあの頃の原稿は未完成のまま」
「あゆみ……なんでその話を俺に」
平行世界の、その七年後で会ったメアリー・アンが、クリスが言ったタイトルの完結を期待していたことを司波は思い出す。涙は止まっていた。
「大サービスで、あたしのこーりゃくフラグ立ててあげてるからだよ。泣き虫司波」
しんみりとしていた雰囲気をかなぐり捨てて、中島クリスがおどけて笑う。
「……おいクリス」
「なーにー? 司波? じゃなかった、一条?」
「中学生のふりしても遅い。記憶が戻ったのはバレバレだぜ花の独身二十六歳」
「見よ、この魅惑のロリロリ体型! あたしは真のロリババアとして大復活ッ!」
スカートの裾が派手に広がるようにクリスがくるりと跳ねて一回転。
「まあ……中学生に間違えられるのが小学生並みになったのは確かだな。そんな派手な縞々パンツなんか履いてたら特に」
きまりが悪そうに司波は背を向け視線をそらしている。
「おっ? 煩悩に直撃かあ? 司波ってもしかしたら、中島クリスちゃん十五歳の縞々パンツにピキーンと欲情した?」
しつこくクリスは追いかけて司波の正面に回り込む。
「してねーよ」
「中学四年生の荒々しいオスの本能が見境無く暴走して、可憐なメガネ美少女を強引に保健室のベッドに押し倒しちゃったりする?」
「頼むから年頃の純情な少年をからかうな花の独身二十六歳」
「心はそうでも、この身体は未熟な青い果実の十五歳だし……って、これすごい!」
「まあ、夢の中の世界なんて普通は意識できる方が難しいだろーけどよ」
「そんなんじゃない! あたしってば、いまは司波より確実に年下!」
「身体だけはな。午後の四者面談の時に、そのへんの話と説明はしたはずだぜ?」
ありすと司波は、クリスと舞に、もろもろの事情説明を済ませてはいた。
「言えるッ……臆面もなく思い切って堂々と言えるッ! 聞いて聞いて司波!」
「六億年の輪廻転生の中でも、こんなことは初めてとか、そんなんか?」
だが中島クリス――少なくとも見た目は小学五年生か六年生が、少し大きめサイズの中学制服を着ているような外見の少女は――司波にぴたりと寄り添って上目遣いで。
「一条せんぱーい♪」
と力いっぱい飛び跳ねて抱き付き、ほっぺたにキス。
「……おい」
「そっちもつらいのに、怖い夢から起こしに来てくれて……ほんとにありがと」
しがみついたままのささやき声は照れていた。
「契約だったろ?」
養父母の親類縁者から拒絶された司波は施設に送られる予定だったが、その運命は、入国管理センターに、差し入れを持ってきたクリスとの再会で切り替わった。
「食費と学費を貸してくれて、炊事洗濯掃除家事全般と、めざまし担当の、激甘な住み込みバイトやる気あるなら、後見人になってやっていいって」
「締め切り直前のあたしが爆睡してて、殺す気で追っ払おうとしても、めげずに叩き起こす資質がありそうだなーって見込んだだけ」
ちょっとだけ残念そうにクリスは抱擁を解いて司波から数歩ほど下がった。
「よーし決めた! 結婚しよっか司波。法的にはまだ二歳分足りないけど、事実婚ってことで、今夜からあたしの部屋でいっしょに寝ちゃお♪ うれし恥ずかしの初夜だ♪」
「いきなり、どうしてそうなる?」
「あたしんちの家訓でね、メガネを外した素顔か縞々パンツを見られたら、その相手を殺すか愛するか、どっちかしかないことになってんの」
言いながらクリスは自分でメガネを外して素顔をさらし、意地悪そうに笑う。
「それにほら、司波が、ちっちゃいアリスを大好きだってわかったし、この身体なら、特殊な性的嗜好にばっちり応えられちゃうぞ♪」
「この夢からさめたら、たぶん女風呂のサウナで、いつもの身体で起きる」
ふう、と司波はため息。
「ちぇーっ、ありすとふたりで、コスプレして小学生料金で映画に行こうと思ったのになー」
「俺の娘にはエリートオタク教育しなくていいぜ」
「あきらめなさい。ありすにはもう早期教育開始済みだから」
メガネを元に戻したクリスは、チッチッチッ、と人差し指を立てて振り、にやつく。
「ところで司波、さっきのあのお姉ちゃんは……なんだったの?、」
昇降口に行き当たったところで質問が出たが声の調子はふざけたままだ。
「ここはクリスの夢だ……クリスがおぼえてる……イメージしてる姉貴だ。その身体になってるのも、おまえが十五歳の自分を再現してるだけで、その気になって強く想えばいつもの自分に元通りだぜ」
夢の世界では、その夢を見ている者のイメージがすべてを支配する。
そして、それを極端に歪曲させて利用するのが《悪夢》であり、打ち払う役目を担っているのが《幻想代行者》たちと《記述者》なのだと司波は続けた。
他者の夢の中であっても、おのれ自身を保ち、何かをイメージする形や力を、自在に使いこなすことで対処できる数少ない存在なのだとも。
「つまりあたしは自分の夢の中でなら、好き勝手に幼女になったり、ババアになったりできるわけかあ」
靴を履き替えて校庭に出るとクリスは空を見上げて目を閉じる。
「頼むから、悪の大魔王とか、地球征服をたくらむ宇宙人になりたいとか念じるのは、勘弁してくれよ。能力までマジに再現されちまうんだからな」
「そーゆー大事なことは、さっさと教えてよ! クリスちゃん今度は六億年前から輪廻転生して九尾の狐とバトルしてきた伝説のまじかる騎士――」
「封印するしか手がない九尾の狐まで再現されちまうから、やめてくれよ。俺の呪文も残りはゼロだし、ありすはほとんど見習い状態――って、そういや、ありすはどこだ?」
アリスからの伝言を受け取るために呪文の回数が消費されたことを意識できるほどに、司波は落ち着きを取り戻していたが、ありすの気配が感じられないことに声が揺らぐ。
「さっきまでは廊下でお姉ちゃんと遊んでたよね。どこ行ったんだか」
校庭には誰の姿も無かった。
遠くから物音や声も響いてこない。
「おーい、ありすー! おとーさまは立ち直ったぞー!」
「ちっちゃくなったクリスおねーさんもいるよー!」
ふたりは大声で呼ばわるが、不気味な沈黙だけが戻ってくる。
「ねえ司波、あたしがここを夢だって認識したら、あのお姉ちゃんはどうなるの?」
クリスの声がわずかではあるが震えている。
「おまえが姉貴を強く否定したり、消えろって思わない限り居続ける。ただし、この時点で、あっちも、いまの自分は妹のイメージが産んだものってことを理解してる」
「だったら心配しなくていいよ。どうなってんのかは正直まだ把握できてないけどさ、ありすといっしょなら、きっとあの子を守ってくれるはず」
司波に落ち着け、と言うようにクリスはそう口にした。
「ありす~おとーさまだぞー!」
もう一度だけそう叫び、探しに行こうとしたところでゴソゴソ物音が聞こえた。
「ほらあ、お姉ちゃんのクリス! こっちこっち!」
「い、いいよ! どーせあたし死んでるんだし本物じゃないから」
花壇の陰から、ありすが中島来未の腕を引いて歩いてくる。
「心配させやがって。どこに隠れてたんだ、ありす」
が、ありすは司波の前を通り過ぎて、中島あゆみであるクリスのところで足を留めた。
「ほら、ごあいさつ。ちゃんとお別れできないと、すっごく悲しいんだよ?」
ありすの言葉に司波は、自分の娘が母との別離に際して何かあって、その実体験からお節介を買って出たのだと連想する。
「げ、元気してるかー、あたしの愛弟子にして二代目中島クリス」
来未はぎこちなく妹に呼びかけたが視線は逸れている。
「フッ、老いたな姉上。もはやこのあたしの力は、あと一歩で壁サークルにして月刊誌連載の域に達したのだ!」
「なッ……なんと強大な力。そこまでに成長するとは我が妹ながら末恐ろしいッ!」
目を見開き、過剰にのけぞる来未。
「BLマンガの月刊誌と、マニア向けのマイナー月刊誌と、あと夏と冬のイベントで俺をこき使って、がんばってるぜ」
お盆にはまた暑苦しい場所に駆り出されるのだとげんなりしながら司波もフォロー。
「おとーさま、壁サークルって、なあに?」
「マンガを売るイベントで、人気作家の仲間入りってことらしいぜ」
「売るって言うなー! 頒布って言えーッ!」
と、姉妹そろってのツッコミが入り苦笑する司波。
「BLはー? そろそろ教えて?」
「……ありすはまだ知らなくていい」
「おとーさまの意地悪ー」
むくれるありすの頭を、司波はふたりの妹にそうしていたように軽くぽんぽん叩く。
「あ……なんか、そろそろ消えるっぽい感じかも」
帰宅時間の門限が来たような気楽さで来未が言うとクリスの目尻に涙が浮かぶ。
「ねえクリス、お姉ちゃんのクリスに何か言いたいことあるよね?」
ありすがそう促すと、クリスは来未の身体にしがみつく。
「お姉ちゃん……助けてくれて……ありがとう……あたしだけ生き残ってごめん」
「クックックックッ……これでペン入れとトーン貼りを手伝わせた借りは返したぞ」
そこまでが来未の限界で、こちらも涙ぐんでしまう。
「あたし次の原稿料が入ったら完全デジタル環境に移行するんだ……いいでしょ?」
「じゃあそれで《J&J》きっちり完成させて……お彼岸には仏壇に供えるよーに」
「……うん。ちゃんと完成させる」
「余力が出来たら《ハイパーボレアまじかる騎士団》の方もね」
「努力はしてみる」
「うむうむ、余は満足じゃ。一条もありすも、あゆみのこと、よろしくねー♪」
その言葉を言い終えると同時に中島来未の姿は半透明に薄れていき、すぐ完全に消え去った。
肩を震わせてうつむくクリスは大泣きするのを必死でこらえている。
そう察した司波は、しゃがんでありすを背中から抱きしめ、静かに鎮魂が終わるのを待った。